師匠

大切な人がまた一人逝った。
前職、新宿三丁目でお世話になった私の上司(常務)だった人だ。
厨房からホールへ、私の大きな転機を助けてくれて人だった。
私が動けるまで、私が自ら動けるまで、私がすることを黙って見つめていてくれた。要所要所で身を乗り出す様に、私がやったことに対して、原因、結果を自らの分析を通じて説いてくれてた。スーッと心に落ちる言葉を織り込めて。

・日蓮宗を熱烈に信仰し、その仏門の教えを通じてわかりやすく説明してくれたが、一度も私を日蓮宗に誘うことはなかった。

・山が好きだった。山岳写真が好きだった。幾度か私を山に誘っていっしょに登った。
最初の山は尾瀬だった。当日朝、迎えに行った私のリュックをひっくり返し、着替えを中心とした軽い荷をおろし、代わりに自分のカメラ機材を私のリュックに詰め込んだ。メチャクチャ重くなったリュックを背負い尾瀬の山道を歩いた。
歩きながら足がつりそうになること幾たび。一度でもリュックを下ろすと立ち上がれないと、背負ったまま岩の上に腰を下ろす時々の休憩だった。
カメラ機材がリュックに入っているのは知っていたが、常務がその機材を使う気配はいっこうにない。
「常務、私の背中のカメラはいつ使うんですか?」
返事は
「それは雨の時に備えて持ってきたカメラだ。」
「えっ?雨が降らなかったら?使わないんですか?」
「うん・・・・。」
答えはなかった。
そんな・・・・

後日、「いつ弱音を吐くか見ていた。」と常務は話す。
何のために?
ただあの山へのきつかった思い出は強烈であり、三泊四日の尾瀬縦走だったが、山が好きになった。あのきつい思いが、その後一人で山へ行く自信に繋がった。以降何度も一人で山へ行くことになる。山岳写真ではなかったが、カメラも好きになった。

・お店には天才的な調理長がいた。店の大きな原動力だったが、考え方は職人であって経営者ではなかった。その調理長の下で働く私をホール支配人としてコンバートしてくれたのが常務だった。
接客経験ゼロの私をお客様一人一人に紹介し、機会あるごとに町会、商店会、法人会などへ随行させ、場数を踏ませた。そしていったん私を紹介すると常務は一歩控えた場所に立ち、私が後継者だと周囲に認知させていった。
私が表に立つことで恥かくこともあっただろうに、ジーッと辛抱し私の成長を待ってくれた。

かくしてこの方から私は、山、カメラ、経営などいろいろと教わった。
私の上司であり、先生であり、親父だった。
この人に巡り会ったことに感謝。

6月6日。死に目に会うこともなくこの方が旅立った。
奇しくも私の父親と同じ命日の6月6日だった。

この方の家庭環境はけっして恵まれていたとは言えなかったが、実の息子以上に私を育っててくれた。
ありがとうございます。
ご冥福を・・・。
大きな空虚がしばらくは私に残る。