風呂に入る。
お風呂の熱でのぼせやすく、あまりお風呂は好きじゃなかった。
それが加齢とともに浴槽内の滞在時間は長くなってきた。
加齢と言うより高齢が風呂好きにさせた。
マンションの6階にある我が家は狭い。
当然風呂場も狭い。
広さと時間を有効に使うために、お風呂に入るルーティンがある。
浴槽に浸り身体が温める。
後々のひげ剃りを考えて、浴槽には鼻の下まで浸る。
浴槽から上がると、まず頭を洗う。
シャンプーの残った泡を脇の下と股間に持って行き、それでもって洗う。
シャワーで頭を流すと身体をあらためて洗う。
最後にひげそりと歯磨きをして浴室を退場となる。
ルーティンとなった作業が終わり、最後の歯磨きをするばかりとなった。
が、いつもあるところにいつものチューブの歯磨き粉がない。
(なんだよ、ちゃんと定位置においとけよ!)
「おーい、歯磨き粉がないぞぉ!」
と怒鳴るも、奥の部屋でテレビ鑑賞の奥方には声が届かない。
(まったく、なんだかなぁ・・・)
狭い我が家、浴室の隣はキッチンだ。キッチンにも歯ブラシと歯磨き粉は置いてある。1歩、2歩とキッチンに踏み出さなければならないが、割と近くに常備してある。
フローリングの床を塗らさない様に慎重に手を伸ばして歯磨き粉を取る。
さあ、歯磨きだ。
と、キッチンから取ってきた歯磨きを右手に持ち、左手でフタを開けようとした。
あれ?
左手にも歯磨き粉が・・・・。
えっ?
おれ、歯磨き粉を持ったまま歯磨きを探してたの!
頭はまだまだ老化はしてないぞと、自分ではぼんやりとした自信を持っていたが、その自信が、音を立てて崩れていく・・・・・・。
2023年 4月 の投稿一覧
父を想う、老いた我を想う
病院のベッドに横たわり、布団の裾から見える壊死寸前の足先を見て
亡き父は
「オレはこのまま亡くなっていくんだ・・。」
泣きながら叫んだそうだ。おそらく足先の感覚は無かったのだろうと思う。
父の本職は真言宗の坊主だった。
幼き頃は仏壇の前に正座させられて、何度も何度も固い六角形の樫の棒でたたかれた。
母曰く、
「あんなに修行を積んで、悟った人だったのに、やっぱり死ぬ時はあがくのかしら・・」
私の昔の上司が施設に入った。84歳。
足腰は衰え、歩くこともままならず、肺に水がたまる病気をかかえ、時として呼吸困難も起こす。その都度、私と同期で上司の部下だった西井(現在の歓のホール担当)に電話が行く。彼女が駆けつけ、病院に送っていく、という事が数回。
救急以外を含めると、昼夜を問わず電話、メールが行く。
たいへんだろうと思う。きっと彼女にはワガママが言いやすいのだろう。
施設に入居して翌日の今日、上司からお店、私の携帯と電話、メールが届く。
が、電話に出るとガッチャと切れる。メールはおよそ文面とは思えない、メチャクチャな文字の羅列が続く。解読不能。
自宅の鍵を取り上げられ、携帯も夜9時になると施設預かりになり、現金やカード類は成年後見人が預かり、自由という自由がほぼなくなった。
きっと寂しいのだろうと思う。施設の方は
「慣れさせてください。みなさん、入居当時は帰りたい、帰りたいとおっしゃいます。」
そうなのだろう。
奥さんは同じ施設で世話になっている。病気で寝たきりになり、胃瘻までしている。最近は認知症が進み、言わば生ける屍となる。
聡明な方だった。豪放であり、でも人情の分かる人だった。
私を「胡座楼」という前勤務先の後継にさせようと、常に一歩下がった位置で私を見守ってくれた。
経営全般、カメラ、登山、、これらを私に教えてくれたのはこの上司だった。
ホントに感謝しかない。
それが悲しくなるような境地に追い込まれている。
手助けしたくとも、施設に預かる身では、私にはもう何も出来ない。
そしていつかは、たぶん10年くらい後には、私も似た様な境遇になるのだろう。
日本の人口、12年連続減の1億2000万人。
人口減はともかく、長生きが増え老人の割合が多くなったと痛切に感じる。
東京でも感じる高齢化。地方に行けば高齢化はいかばかりか。
そしてそれは、けっして人ごとではない。
あと何年生きられるか知らないが
あと5年先、10年先、15年先・・・
妻の留守中
妻の出身は山形県川西町だ。
朝日連峰と飯豊連峰に挟まれた位置にある。
いつか引退したらこの町に行こうと考えていた。
毎日山登りができると心中小躍りしていた。
のどかな、しずかなたたずまいを見せる町だ。
彼女の両親は同年齢で、今年94歳。母親は施設のお世話になっているようだが、両親ともまだまだ健在だ。
彼女の兄が同居し、普段は父親との二人暮らし。
「(両親は)もう何があってもおかしくない年だし、会えるうちに会って来いよ。」
コロナ禍がようやく収まってきた今年、帰る頃合いになってきたと思い、妻にそう伝えた。
4月3日の自分の誕生日をしっかり終えてから1週間ほどの予定で帰郷した。
帰る寸前まで、残された私のことを心配し
「洗濯物大丈夫?、火の元はちゃんと確認してね、お店の経理のことは帰ってからやるからそのままにして。」
「わかった、わかった。余計な心配しなくていいから早く帰れ。」
帰る日の朝までクドクド。そして
「私がいなくなると寂しい?」
山形に帰った次の日の夜、メールが届く。
「寂しくなかった?」
ここまで来ると、どうしても「寂しい」という私の言葉を聞きたいのだろう。
「枕くらい日干ししろ。湿ケっぽいぞ。」
「ちゃんと定期的に洗ってるし、そんなことないよ。」
「あれ?俺の涙かぁ?」
「やっぱし。」
「あ、(湿っぽいのは)俺のよだれだ。」
「きったない!、ちゃんと洗っといてよ。」
「汚いとは何だ!小便がたれるよりましだろ。」
私には前立腺癌の後遺症で尿障害が続いているのだ。
たわいのない夫婦がここにいる。
いつか94歳の両親のように、こんな会話が私たち夫婦の間でも続けることができればいいな。