夫婦

2月14日日曜日。
今日も夫婦二人で歩いた。
今日は小石川植物園。
青空が広がり春の息吹を感じる日より。散歩には申し分なかった。

歩きながらでも、一つ一つの世間話でチョコチョコ口げんかをする。
というより、応えるのがめんどくさくなり、聞こえないふりをしていると、
「ねぇ、何か言ってよ。ウンとかスンとか・・・」
「うん。すん。」
「なんだ、聞こえてるんじゃないの!」
実にたわいない。
でもこの妻とこういう会話をいつまで続けられるのだろうと、時々思う。

「おい、お腹減ったな。何か食べよか?」
「ううん、まだそんなにお腹減ってない。朝食べたのがまだお腹に残ってる。」
「あ、そ。」
・・・・・・・・・
しばらく歩いてたら、妻の方から
「何か食べる?」
「お前、まだ減ってないって言ってたじゃないか。5分も経ってないぞ。」
「年取ると、食べたものが少なくてもすぐにお腹いっぱいになるのよ。」
答えにもなってないが、ま、いいか。と
「何が食べたい?」
と食べ物屋を物色する。

確かに若いときほど量が食べられない。
量も回数も減った。
二人で食事をする回数、あと何回だろう、と歩きながら考える。
歩くという行為、スマホやテレビを見る場合よりも「考える」ことができる。
いいことだ。
二人の食事回数を想像する。
私が67歳。5歳下の妻62歳。
お互いが元気で過ごし80歳まで生きたとして、13年間。
平均一日一回ふたりの食事時間を作ったとして一年で365回。
かけるの13(年数)は、4,745回。5,000回を切る。
一日平均二回の食事を妻と一緒にしたとしても一万回を切る。

いずれ、遅かれ早かれ訪れる別れ。
どちらが先かわからないが、生けるものに平等に訪れる「死」
その時にこの散歩も、食事も、口げんかも終わりを告げる。

歩きながら、口げんかをしながら、「こんなのがいいよな。」とつくづく思う。
一緒に歩き、口げんかができる、こんな女を妻にできて、率直に「良かった。」
そしてどちらか先になくなったときのことを想像する。

私が先立ったとき。
どちらかというと主導権を握っていた、くせのある私。
妻はまず空虚感を埋めることにたいへんな労力を割くことになるだろうと思う。
でも割と主張を強く押し出さない彼女、新しい(私のいない)世界に溶け込むのも早いと思う。男よりも順応性の高い女性だし、時間の経過とともに静かな余生を送るものと思う。
何より子供たちが妻の味方だ。

妻が先立ったとき。
妻が亡くなった穴はかなり大きい。立ち上がれないかもしれない。
体力が残っていれば私一人で切り盛りできるレストランをするのが現実的かな。
「深夜食堂」の私バージョンだ。
一人でいることが耐えられるほど自分のことを強いとは思ってないから。
店舗を17年間維持できたのも拡張できたのもすべて妻が踏ん張ってくれてたからだ。
体力が残ってなければ、一人朽ちることができる場所を探す。
それすらの体力も残ってなければ、どこかの施設・・・・。
まだそこまでの思いは至らない。

一寸の光陰軽んずべからず。
たぶん「あっ」という間に訪れる。
暖かな日差しの中、妻との時間をいとおしく感じながら、いとおしさがグラスが割れるはかなさも持っていることに気がついて。