高校を卒業して2年後に中華料理店の門をくぐる。
大学進学を目指して二浪後のことだった。
進学を諦め、さてどうしようかと考えあぐねていた頃のこと。
悩むという感覚ではなく、楽観的な性格は将来の不安は微塵も持ち合わせてなかった。というとカッコイイセリフに聞こえるが、計画性が全くなかったのだ。

鹿児島の実家が日本そば屋を営んでおり、父が
「これから中華の世界になると思う。」
この一言で進路が決まった。父の知人が防衛省におり、その防衛省で当時使っていた中華料理店が新橋の「新橋亭」だった。

当時の新橋亭は元気いっぱいの新興会社だった。
元は台湾系華僑が出店したお店で、新橋だけでも本店、別館、夜来香(イエライシャン)、新地下店と4店舗あったはずだ。
私が勤務したのは本店。1階~5階まであり、その屋上に住み込みで働いた。
厨房従事者(調理人)は12名ほど。若い人が多く厨房も活気を要していた。

この厨房で働くようになって最初に感激したことがあった。
前菜だけの冷蔵室があった。切って盛り付けるだけの調理済み料理が2坪ほどの部屋にぎっしり並べてある。
チャーシュー、蒸し鶏、クラゲ、煮卵、ロースハム、海老、イカ、巻き物・・。

初めてこの部屋に入ったときには、フーッと息を呑んだ。
子供がお菓子の家に入ったときはこんな感じだったんだろうと思えるくらい感動した。
自分のものでもないのに、この部屋にあるもの、食べようと思えば全部食べられる・・。という感動だ。
私は小学校時分に大人用飯茶碗で9杯の記録を持つくらいよく食べていた。
日本中がまだまだ貧乏だった余韻が残っていた時代だったから、食べられることが羨望だったし、この職業を選んだ大きな動機だった。欠食児童だったのだ。

この時の新橋亭の会長夫人が鹿児島出身、実家が鹿児島市内の中華料理店「美華園」と聞いた。だから厨房勤務者の内、南日本調理師学校(鹿児島)出身が3人いた。ほとんどが中卒だった。
私は20歳入社なので、先輩が年下だった。
その年下から、包丁で切りものをすると
「無理だよ。早すぎるよ。」
これがしゃくに障った。でも実際の技量はついていかない。
悔しくて悔しくて、住み込みだった5階の部屋から夜中起きて、切りものにいそしんだ。しかし技量がついていかないために翌日、
「誰だぁ!こんな不均等な切り方をしたのは!」
と、時の調理長にメッチャ怒られた。

実家にいる自分でも料理の手伝いなどしたことなかった私だ。
切りものはもちろんのこと、料理用語だって知らないことがたくさんあった。
調理長から棚の上の方にある「セイロ」を撮ってくれと頼まれ、椅子の上に載って棚の上を見た。しかし「セイロ」がわからなかった。
棚の上を私の手が右往左往する。それを見て関西出身の調理長が
「アカン!アカン!」
と連呼。それを聞いた私
「アカンってどれですか?」
あとで
「お前、良い根性してるよ。チーフに向かってあんな口たたけたのお前だけだ。」
と褒められた(?)。

厨房の先輩諸氏が事務のお姉さんや仲居さんのお尻を着物ごしにサラッと触る。
「やだーぁ」
触られた方が黄色い声を上げる。
(あ・・この女の人たち触っても怒らないんだ。)
私も真似をして触った。たちまち
「お前が触るの10年早い!」
世の中がまだまだおおらかで、私も血気盛んな時代だった。