チェスと将棋

若かりし頃、結婚して子供は何人作ろうかと考えた。
1人、3人、11人という数で作ろうかと考えた。
それは自分の(子供育てる)財力とか子供好きだとか、と言う理由ではなかった。
当時私が好きなものが三つあった。
将棋、麻雀、サッカーだった。
子供を一人作れば将棋が出来るだろう、三人作れば私を含めて4人で麻雀を、11人作ればサッカーチームが作れる、と単純に夢想していた。
「子育てがどんなにたいへんか」が実際に子供が出来ると、ようやく理解できた。かくして子供は三人で打ち止めとなった。

さて、子供が授かり、その子供が大きくなり、学校に上がる頃になったら早速将棋を教えた。
私の棋力はアマチュア初段というところ。
町中のちょいと「オレは将棋が指せる。」という方たちがだいたいの棋力がは4級といったところ。私はそれより少し強いかなくらい。私が将棋を覚える時には将棋の先生がついていた。プロの登竜門である奨励会出身の人だった。

その先生は厳しかった。「待った」はもちろんだが、敗戦の時は必ず盤面を前にして正座して「参りました。」と言わされた。
当時、”角””飛車””香車”の3枚落ちだった。そういうハンデを貰いながら、先生にはまず勝てなかった。当時の私の棋力が4級だった。
が、毎回「参りました。」を言うのが悔しくて悔しくて、様々な将棋教本を見ながら覚えていった。

そのやり方を子供たちに教えていった。
子供たちにあえて「参りました。」を言わさせた。
子供たちは面白くなかった。将棋を覚える以前に、私との実力差に将棋に対して嫌悪感を抱いたのだった。
私が大人げなかったのだ。

麻雀は「運」が作用する部分が大きく、将棋ほど実力の差は出ない。
麻雀は子供たちも好きに覚えていった。

ウクライナとロシアの戦争が長引いている。ロシアはミサイルを撃ちながらも、戦争を仕掛けてない、民間は標的にしてない、などの言っている。
戦争は悲惨だが、大陸系と日本人の戦争観は違うのでは、と思う。

日本の将棋は、取ったコマを使えるが、チェスは取るだけで終わる。
日本の古来の戦争は、勝利した相手の武将を我が陣営に組み入れる場合が多々あった。兵を指揮できる人材を惜しんだ故と、私は考えている。それが将棋のルールに根付いたのでは、と考える。

比して、中国将棋やチェスは取ったコマを再利用することはルール上にない。
徹底して抹殺する、中国や西洋の戦争をモチーフにすれば、取ったコマの再利用ルールは、なくて当たり前なのかと。

ロシア、ウクライナの戦争を見ていると、チェスの持っている背景がちょっと分かた気がした。