家出

私は18歳頃に3回ほど家出をしている。
高校時代に2回。
鹿児島県姶良郡にあった公立高校だったが、校区外からの入学も多くアパートを借りている生徒も少なからずいた。
1回目の家出は、その友人宅に転がり込んだ。その友人は、今思い出せば、決して素性の良い学生ではなかったが、犯罪をおこすほどの「悪」ではなかった。
そこから学校も通った。

家出の理由は親父への反発だった。大学への進学を控える三年生という立場にあって、親父から金銭的な負担を理由に怒られるのが嫌だった。
そして当時の高校の校風も進学一辺倒。学校の権威なのかプライドなのか、進学のための学習をおしつけられていた。
そういう環境のなか、友人を含め、同級生たちは実によく勉強していた。
そういう同級生を私は素直に感心していたし、尊敬もしていた。
当時は鹿児島特有の立身出世的な、「末は学者か大臣か・・」的な身を立てる雰囲気が、家の中でも学校のなかでも感じていた。
それがとてつもなく嫌だった。

勉強は嫌いではなかった。だが押しつけられる勉強は何かの理由をつけて逃げていた記憶がある。
後日談だが、数年後の同窓会で再会した同級生のほとんどが、小中高の教職を選んでいた。
(えっ、先生になるためにあんなに猛勉強していたの?)
教職をけなしているつもりじゃけっしてないのだが、あの猛勉強ぶりは、もっともっと大きな大志を持っているからこその勉強だと思っていた。そのくらい同級生たちは寸暇を惜しんで勉強していた。

ま、何はともあれ、今風で言うと相当ストレスがたまっていたのだろうと思う。
反抗期だったのかも知れない。
些細な口実で親父と喧嘩し、オロオロする母親を尻目に家を飛び出した。

2回目は受験間近の1月。当時は東京の大学に進学するつもりで準備を進めていた。原因はまたまた些細なことだった。
言い争いのなかで親父が
「経済的援助を断ち切るぞ。」
と脅かしてきたのに買い言葉で
「ああいいよ。かまわないよ。」
次の日には大阪へ飛んでいた。

大阪では高校の同級生の叔父さんが印刷会社を経営しており、そこに飛び込んだ。血気盛んだったし、何とでもなる、という捨て身が難なくできた。
今、思い返して見ると、思慮の足りない、世間を見る目すらない馬鹿な小僧だったと思う。
一ヶ月後、印刷会社の社長が連絡して親父が迎えが来た。それで二回目の家出は終わった。
帰ってきた数週間後に卒業式があった。クラスごとの卒業証書を代表者が受け取る。私はクラスの委員長だった。本来は私が卒業証書を受け取りに壇上に上がるはずだったのだが、式の段取りをする時、私は家出の真っ最中。
ということで壇上に上がったのは副委員長だった女性。周りのクラスの奇異な目が私の背中に突き刺さる。
(ま、しょうがないか。)

三回目は大学浪人の真っ最中。年の瀬が押し迫った12月。
同じような原因だったのだが、10日に喧嘩し13日には東京へ着いていた。
國學院大學へ進んだ同級生が五反田に住んでいた。居候を決め込んだ。
早速バイト探し。居候した同級生のツテで渋谷東映の映画館の売店で仕事。
「網走番外地」「仁義なき戦い」「女囚サソリ」などが上映されていた時期だ。
年末には居候していた部屋の同級生が正月帰省で鹿児島へ帰った。
アルバイト代は月給制になっており、 その給与が入るまでに私の手元資金はなくなった。正月で当時はアルバイト先も探しきれず、ほぼ1週間飲まず食わずの生活が続く。同級生がふたたび東京に帰ってきた時に
「とにかく何か食べさせてくれ!」と懇願、逆に食べ過ぎてお腹を下すという失態。
数日後は日通の配送助手の仕事を探す。しかしアルバイトで入学金が貯まるわけ無く、大学進学は断念。

昨夜、商店会会員の一人の相談に乗っていた。女性だが血気盛ん。企画力も行動力もあり、なかなか頼もしい。現在40歳。
だが、少し焦っている。結果を早く求めようとしている。
その彼女の相談に乗りながら、そのパワフルさに昔の家出時代を思い出した。
私はまだノンビリと人生の先を見ていたのだが、彼女は40歳という歳のせいで結果を急いている。
私がこのお店を51歳で起業したことや、一人でやれる仕事には限界があるし、人(部下)の気持ちを上手に引き出すことを切々と説いた。

相談に乗りながら、二度と戻ってこない若さのパワーを羨ましく見ている私がそこにいた。
家出の話し、なぜか思い出した。