新調理人1

紹介するのはまだちょっと早いのだが、新調理人が来た。

少しずつだが売上は上がってきている。まだまだ全盛期には遠いがランチも回復基調だ。弱含みで上げって来ている。どうしようかと迷いながら、年末のことも考え、
「(一日)フルの勤務はきついけど、夜だけか昼だけ勤務したいという調理師はいないですかね?」
と調理関係の知り合いに探して貰っていた。
電話での何度かのやりとりのあと、
「オレ、行きましょうか。」

この人のお父さんとは縁がある。
昔、それこそ40年近く昔、新宿にビッグチャイナと言う名前の中華料理店があった。その調理長だった方だ。そのお店の副調理長が私の調理の師匠だ。数年前に亡くなられたので実名でいいと思う。大澤さんという。
当時、大病し大きな借金を抱えた大澤氏は、ビッグチャイナの勤務が終わった後、歌舞伎町にあった「アップルハウス」というディスコの厨房を請け負っていた。
私はそこに誘われた。私も歌舞伎町の別な中華料理店で仕事をしていた。そのお店が終わった後のバイト勤務だった。

少し話しは逸れる。このディスコ、金曜土曜は2000人が来店していた。お店の決まりで一人1品1ドリンクの注文を取らなければならなかった。値段は忘れたが、ポテトチップ、唐揚げ、チーズ、サラミ、春巻き、八宝菜、エビチリなど普通にあった。ただ金曜土曜になるとメニューを10品程度に絞った。それでも一人一品だと2000品だ。私と二人しかいない調理場だった。それで2000品をこなす。
大澤調理長から、
「おい、その鶏を唐揚げ用に切っとけ。」
指定された場所に目をやると、羽をむしり内臓を取った丸のままの鶏が50羽あった。最初に言われたときは「えっ!」と思わず声が出た。文句や否定を言える相手ではない。
中華の叩き包丁は重い。その包丁で文字通り叩き切る。50羽はさすがに切り甲斐がある。切り終わったときには右手の指が痙って包丁から離れなくなっていた。切り終わった鶏の塊に塩、胡椒、醤油、玉子、小麦粉、片栗粉で味を入れるのだが、調味料を合わせられる大きさのボールはない。皿を洗うシンクに全部入れて、そこで玉子や味を入れて混ぜていた。

チーズやサラミも一口大に切れと言われたが、ものは箱単位のチーズやサラミだ。1箱50本とか100本とかあった。堅いサラミを切るには力が入る。切れる包丁でも力で切るのは、手を切る場合も多々あった。刃を添えている人差し指の第一関節、第二関節、中指の第一、第二関節には、多いときに2つくらい絆創膏が常に巻いてあった。
春巻きも一回に巻く量は500本だった。今思い出しても儲かっていたお店だったと思う。
時はバブルにさしかかっていた。

話を親父さんに戻す。
その私の師匠の親分が、新調理人の親父さんだ。その親父さんは晩年、上板橋で「アジアンキッチン」なるお店を出していた。奥様と二人で営む小さなお店だった。当時板橋に住んでいた私は時々そのお店に食事に行った。
「小籠包と餃子、エビ焼売ください。」
というと、そこから料理が始まる。皮から作るのだ。惚れ惚れするほど手が早い。私の師匠の大澤さんも早かったが、、その数倍上を行ってた。出来たての点心はいつも美味しかった。

その息子さん、昼間は服部調理師学校で教壇に月10日ほど立っている。
手の空いている(授業のない)ときは、知人の厨房を借りて点心を作り置きするそう。それを持ち帰り自宅の業務用フリーザにストックするのだそうだ。
他にもいくつかの中華料理店の顧問もやっている。
それでも時間が余っていて、その時間を利用して手伝いに来るという。

技術は確かなのだろう。職人らしく顔は少なからずくせがありそうだ。それに加えて「教える」という特技があり、「経営力」という面も持ち合わせていそうだ。

私で彼の手綱が操れるかな?