お節作りが終わった。
昨夜から煮物、焼き物など手のかかるものをやった。厨房が私一人作業だったために今年のお節は一般営業はしなかった。作業時間が読めないため。だから受注数は少ない。早朝から食材の切り込みを始め、11時頃からスタッフが出勤。合わせるように詰め込み作業が始まる。詰め込み作業は小一時間。
簡単な大掃除を終え、スタッフでテーブルを囲み、これまた簡単な打ち上げ。
終わった。今年が終わった。
一人でいろいろとこなす作業はけっこう厳しい。若かりしころは何でもできた。自信もあった。
いまは時間的にも実質的な作業にも、自分の体力を計算に入れないと事を進められない。「老いる」ということはこういうことかとあらためて思い知る。
ま、でも、一年を終えることができた。
由しとすべし。
一人でできる限界を慮り、ひとつひとつの事に向かい、後退できない状況に、どういう進め方、進み方をしなければならないのか。
来年はもっともっと思い知ることになるのだろうと、密かに覚悟を決めん。
数日前に散歩をしながら
「そろそろ終わりを考えてよ。」
「もうゆっくりしてもいいんじゃない。」
「残された人たちに迷惑をかけないようにね。」
と妻から諭される。
返事はしなかったが、
うん、わかってる。
でも終わりって、何だろうね。
いつなんだろうね。
どういう形が一番ベストなんだろうね。
反面、
いや、まだ終わりじゃない。
もうちょっと抗う事と抗うための時間は残ってるよね。
自問自答を繰り返す自分がいた。
新年度も”煩悩”と一問一答しながら、もうちょっと・・・。
何が”もうちょっと”かわからないままに、
この一年間ありがとうございました。
新しい年も、もう少しだけおつきあいくださいませ。
2024年 12月 の投稿一覧
床屋
久しぶりに床屋に行った。
2ヶ月ぶりだろうか。行こう行こうと思っていたのだが、忘年会シーズンの繁忙期もあって行けずにいた。今日は日曜日で本来定休日なのだが、夕方から予約がある。10過ぎに床屋に向かった。
以前通っていた床屋は最近混み合っている日が多く、4~5名並んでいる。1時間待ちで並びたくなかった。そういう事情で、床屋を変えた。
医大通り沿いの、市ヶ谷方面靖国通りに出る手前にある、老夫婦で営んでいる床屋にした。店内には山の写真が数多く飾ってあり、山好きな主人の趣味が前面に出ている床屋だ。私の山好きも手伝い話しははずむ。私よりも格段に多くの山に行かれている。
この日は先客がいた。ご主人が先客の整髪をしていた。
奥様に席に案内された。手にはバリカン。
(お、今日は奥様が散髪されるのか。)
奥様の整髪は初めてだった。
床屋のイスは座り心地が良い。どこの床屋に行っても、私はまず寝る。寝る癖がついているように座った途端に眠気が襲ってくる。
この日も床屋に取り付けてあるイスに座り、目をつむった途端睡魔が寄ってくる。頭にはバリカンが・・・・
ん?ん?
バリカンが頭に突っかかってる。頭皮に接触しているバリカンが、ウィーン、ウィ、ウィ、とスムーズに動いてない。
薄目を開けて、鏡を除く。鏡の中で奥様が私の頭にバリカンを当て動かしている。そのバリカンを持つ手が震えている。
私の左手も少し震える。震えを制御できないのだ。この状態で10年は経つだろうか。軽い神経麻痺だ。右手はなんともないのだが、左手だけが小さく震える。緊張すると震えは大きくなる。
おそらく、この理髪店の奥様は私と同様の病気だろうと思われる。
ひげ剃りだったら問題だが、頭皮にあてたバリカン程度じゃどうってことない。
開いた薄めを閉じて、また、しばしの眠りに戻った。
闇バイト
ここのところ頻繁に警察が訪れてくる。
赤坂警察、八王子警察、地元新宿警察といとまがない。
要件は決まって防犯カメラだ。
三年前に商店会の街路灯に防犯カメラを5台取り付けた。
昨年、商店会事業として新規街路灯を17本立てた。約900万円かかった。
今年、その街路灯に隣接する町会と共同で防犯カメラ10個ほど取り付けた。
新設は今月のことだ。
都や区が防犯に関して助成金をバンバン出してくれる。90%助成だ。
商店会の負担は1割ほどで済む。
こんなことでお役に立てればと、こちらも設置には積極的に取りかかる。
助成金は初期投資には大きく出してくれるが、月々かかるランニングコストには出てこない。クラウド(ネット)上で管理するには年間20~30万円ほどかかる。
これは負担が大きい。なので画像を取り出すときには防犯カメラの下でWi-Fiを通してデータを拾う。これなら年間電気料金が数千円ですむ。
という方式でカメラを設置した。
画像を警察が見に来るのだ。それもこの1週間の間に4回ほど。前述したように一つの警察署だけではない。警察署同士がかち合うときもある。今日がそうだ。
昨年取り付けた防犯カメラと、今年取り付けた防犯カメラにはそれぞれパソコンがついており、そのパソコンを持ってカメラ下に行き画像を拾う。
パソコンは商店会長である私の所に二台とも有る。
面倒なため、最近はパソコンごと警察に渡すことにしている。
それにしても警察の来訪は頻繁過ぎる。で、聞いた。
「何の画像を引き出すんですか?事故ですか?事件ですか?」と聞く。
「ニュースで話題になっている闇バイトです。そのボスがこの近くにいます。」
とのこと。
いろんな人種が混在している新宿だから、近隣には数種のヤクザ組事務所も点在している。ヤクザが入居しているビルはだいたい把握しているのだが、それとは別らしい。
驚きはしないが、さすが新宿!と妙に納得する。
歓ファンの20周年記念
今から20年前2004年12月3日に、この新宿六丁目で歓は誕生した。
私が51歳の時だった。飲食店開業としては遅い遅いスタートだった。
それでもまだまだ溢れるくらいのエネルギーがあった。
前勤務先はすぐ近くの新宿三丁目にあった。伊勢丹や丸井、三越、ヨドバシカメラなど蒼々たる企業が軒を連ね、日本最大の乗降客を誇る新宿駅も三丁目に含まれる。
そんな三丁目にほぼ接していた新宿六丁目だったが、「明治通り」「靖国通り」という大きな通りが間を遮っており、三丁目や歌舞伎町などの繁華街とはうってかわって閑静な住宅街という様相も帯びていた。
歓ファンのある桂ビルは木造二階建ての建物であり、歓ができるまでは普通の事務所が入居していた。
30坪。ほぼ一ヶ月を要して飲食店に改装。総席数35席の中華料理が出来上がった。メンバーは、私、妻、二戸調理長の三人が核になり5名ほどで稼働させた。
大々的な広告は打たなかった。顧客は持っているつもりだった。まして前勤務先の協力もあり、遠慮なくお客様を集められた。少なくともこの顧客が二年ほどは代わる代わる来店、あるいは新規顧客を紹介して貰えると信じていた。そのくらいの繋がりはもっていた。
自分の勢いを信じた。自分の運を信じた。
20年を経て、当時の勢いはなくなったが、この地域での知名度、密着度は上がったと思う。12年目には、六丁目町会、最大のイベントお祭りの祭典委員長を仰せつかった。医大通り商店会長も務めて8年経った。それなりの貢献はしてきたし、地域に認められてきたと思う。
東日本大震災の最中に二店舗目を開店させた。残念ながら三店舗目をオープンさせられずに縮小を余儀なくされたが、コロナ禍など思いもかけない災害もなんとか乗り切った。
20年の間には持病の糖尿病による狭心症や前立腺ガンなどを煩い身体にメスを三回入れた。その都度体力は落ちていく。気がつけば、古稀を迎えていた。顧客もそれぞれが高齢になり、来店頻度もかなり少なくなった。
歓で勤め上げた人もけっこうな数になる。名前を思い出せない人もいる。
その全てが20年という歳月に凝縮されて過ぎてきた。
12月7日土曜日 18時30分より、ささやかな周年行事をお客様と催す。
席が埋まりきれないけど。ま、こんなもんか。
身体の節々がギシギシ鳴るときもあるが、頑張った証だと思いたい。
時々身体のメンテナンスをしながら、
もうちょっとだけ・・
もうちょっとだけ・・