義母が亡くなった。
山形の、妻の両親は同い年で96歳だ。
96歳という年齢を考えると、今のうちに会っとこうかな、と思い立ち今年5月の連休に妻と山形県米沢市近くの実家に帰った。
6月に亡くなった弟のことが頭にあったのかも知れない。
今思い返すと絶妙なタイミングだった。
5月ゴールデンウイーク。
米沢市近く、ダリア園で有名な川西町に実家はある。
実家に着いた。おそらく米寿の御祝いであった時以来かな・・覚えていないくらい昔になる。
親父は足下が多少もたつく感じはしたが、家の中を自在に歩き回る。近所だがスーパーにも一人で買い物に行く。96歳とは思えぬくらい身体は達者だ。
義母は施設に入居している。
家には70歳になる義兄を一緒に住む。男所帯だ。が、思いのほか家中は片付いている。大工だったせいだろうか。
帰省していた間に義母がお世話になっている施設にも見舞いに行った。おそらくどこにでもある施設と同じく高齢者が多い。私も70過ぎているのだが、おそらく若者に見えることだろう。そして若い訪問客は、高齢者の物珍しそうな視線を浴びた。訪問者はさほど多くはないのだろう。
部屋は2畳ほどの一人部屋で、義母はベッドに寝たきり状態だった。
親父が
「元気か?元気でいるか?」みたいな意味合いを山形なまりで話しかける。応える義母の声も意味はよく聞き取れない。
「綾子が来たぞ。」
寝たきりだが言葉の意味はしっかり聞き取っている。おもむろに私たちを見る。娘のことはすぐに認識した。そしてその隣に立つ私に視線が移る。
すぐに反応した。
言葉こそ聞き取れないが、私の名前を口元に運ぶ。
(あ、頭はしっかりしている。)
女性らしい優しさを含みながら、目力は私をしっかり見ている。
肌あいもしっとりとして艶がある。
よかった。山形にもどってきて良かった、と義母の顔をみてうれしくなった。
施設にいたのは10分程度だったろうか。
それが最後になった。
義母の葬儀に私は行けなかった。代わりに子供たちが孫を連れて山形まで行ってくれた。
義母のいなくなった親父を思う。
施設にあって、普通に会える距離でもなく、時間も限定されていたのだろうが、それでも「いる」という存在だけで親父の生き甲斐になっていたと思う。
「いる」という存在がなくなった時、・・・・・。
気落ちするなよ、と心で思うものの、96歳という親父の年齢を考慮すると、良い方向での思いは馳せない。
6月に「いなくなった」弟とは、せいぜい年に数回ほど、ふた月に一度ほどしか会ってなかった。それでも弟ロスは私の中で大きかった。今でもけっこう引きずっている。これが連れあいだったらと思うと、自分を保てる自信がない。
「いる」がなくなった親父を思うと、遠くにいても胸が締め付けられる。
2025年 10月 の投稿一覧
訃報が続く
何気ないFacebookの誕生日投稿に返信があった。
誕生日者の次男の嫁さんからだった。
義父は去る8月14日に亡くなりました。生前はお世話になりました。という返信だった。
享年88歳。往生といってもおかしくない年齢なのだが、私の心にポッカリと大きな穴ができたのが明確にわかった。
F先生。
思い出の多い先生だった。どうしてこんな私に、と思えるほど私は先生から大きな厚意をたくさんいただいた。
生前の先生から伺ったお話しから波瀾万丈の人生だったことが知れた。苦労も多かっただろうが、それを楽しむ度量の大きさを感じさせる先生だった。
大きな総合病院を退任された後、富士吉田市の病院院長として赴任された。この先生の元へ友人と二人で新宿から自転車で遊びに行ったことがあった。
片道120km。八王子、相模原を経由する同志道を走った。ひたすら登り坂が続く道程だった。乗った自転車はマウンテンバイク。タイヤ幅が大きく、足への負荷は大きかった。道志村を過ぎた当たりからスピードは極端に落ちた。
行ったのは8月と夏の盛りだったが、陽の届かない山道は夕方にもなると真っ暗になった。
途中、この先生が4駆のSUVで迎えに来てくれた。暗い登り道を自転車の後ろから煌々と照らしてくれる。ホントにありがたかった。片側1車線の同志道。私たちの自転車のスピードに合わせてSUVはゆっくりと走る。だが、田舎道とはいえ、このスピードで1車線道路は混雑が始まった。SUV後方の連なる車からはクラクションでせかされる。が、このF先生、頑として道を譲らない。
ありがたいと思いつつ、後方の車列には恐縮した。
時々車を止め後方の車に追い越させる。が、先生が車を止めるのは私たちの休息が主目的だ。
そうやって先生のアジトである忍野村のマンションに着く。マンションの大きな窓の正面は富士山が鎮座している。朝起きてあらためて富士山を拝むと、窓に映る富士山を中心に両側に大きなスピーカーが置いてある。先生はお経の声明をステレオで聞いているんだそう。
はあ!異世界の人種だなあ、先生は・・・
毎年、8月の第1週に富士吉田市の浅間神社で薪能が開かれる。そこにほぼ毎年招待された。招待者は30名ほどにも膨れたことがあった。
能が終わり簡単な食事の後、それぞれあてがわれたコテージに数名ずつ宿泊する。私が泊まるコテージは、私以外全員東大卒。
(高卒の私がなんでここにいるの?)
でも、コテージの中で車座になって話すみんなの話はとてつもなく面白かった。
当時佐野市の市民病院の院長になっていた先生が
「病院前の敷地は提供するから、ここにバスターミナル作れないかな?」
「ああ、それはおもしろいね。企画を投げてみるよ。」
呼応した方は全国の駅や駅ビルを作る会社の社長。
傍で聞きながら
ああ、こうやって日本(国)が動いていくのか・・・と、半酔いの私は、先生の人脈の多さ深さに感嘆していた。
この先生を通じて私の、あり得ない人脈も広がった。
ことあるたびにお店に寄ってくれた。それは奥様だったり、家族だったり、東大ボート部だったり、医学部だったり、山岳部だったり、様々な人たちが歓ファンの店を訪れてくれた。
訃報を聞いたあと、そういう感謝よりも寂しさの方が今は勝っている。
目がうるんできた・・・・。
また一人大切な方がまわりからいなくなった・・・・。
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