少年老い易く学成り難し

以前にも書いたことがあったが、鹿児島にいた時分、有為舎(ゆいしゃ)でいろんな事を学んだ。薩摩藩特有の郷中教育のことだ。 小学生4年の頃から高校2年までの児童だけで組む教育システム。
様々な行事に参加しながら、柔剣道や詩吟などを教わった。
タイトルは、その教わった詩吟の一節だ。

少年老い易く学成り難し
一寸の光陰軽んずべからず
未だ覚めず池塘春草(ちとうしゅんそう)の夢
階前の梧葉(ごよう)已(すで)に秋声

蕩々と唱う詩は私は下手だった。
が、ほとんど漢詩で教わる文句は今でも唱えることができる。
前半の二行は字も間違えずに書けるが、後半の二行を、はて、どんな文字があったっけな、とあらためて見た。

このお店を出して早22年が経つ。
22年間営んできて、いっぱしの経営者を気取っているが、内実は厳しい。
コロナ禍をはさんで、自分を、自分の立ち位置を振り返る余裕がなくなってきているのではと猛省しつつ、上記の詩をあらためて問う。

まだやれる、まだ続けたい、という気持ちが自分を見失っているのではないかと見つめ直している。

昨日簡易バージョンのお節(オードブル)を作り終えて、今年一年の仕事納めになった。明けは5日から。今日から五日間ほどの時間が作れる。
この一年、あるいはここ数年の、厳しい状況、苦しい状況を、私の立ち位置を含めて、あらためて見直して見ようと思う。

詩にもどる。
72歳になった今も、私はまだ夢を持っている。
ただ、ここ数年、夢を支える身体と気力がついてきていない。
だから
「未だ覚めず池塘春草の夢、階前の梧葉已に秋声」
なのではないか。

自分に素直になれ、と自分に問う。
一年の終わりに、終わりの始まりを考えた。