床屋に行った。昨年末以来だから二ヶ月近くになる。
行きつけの床屋は二丁目新宿通り沿いにある。
料金は洗髪、ひげ剃りを入れて2,500円と安い。
普通の床屋が4,000円~5,000円程度なので「安い」を実感する。
「いらっしゃいませ」
「こちらへどうぞ」
張りのある声が私を席へ誘う。
顔を見ると、どう見ても50歳は行っている男性。
そしてこれまでにいなかったメンバーだ。
相応の年なのだが新人だ。
整髪する動きは経験者であることを語る。
この人の、今までの経歴やこのお店に来たことのいきさつを勝手に想像する。
当たり前だがどんなに思いを凝らしても想像の域を超えない。
キビキビした動作と張りのある声の印象の悪くはない。
お店の好印象が上書きされる。
料金の2,500円を彼はどう受け止めているのだろうかと慮る。
彼だって整髪という職人の自負を持っている、そういう所作だ。
自分の技量が2,500円という価格帯に、
・相応だと思って就職したのか、
・妥協したのか、
・やむを得ない事情だったのか・・・・。
が、少なくとも不満を持つ態度でも姿勢でもない。
現状に対して全力投球している姿だ。
こういう姿勢を私は「意識が高い」と考える。
文字通り”姿”の”勢い”なのだ。
稼業である我が身についつい照らす。
彼のような存在は大切にしたい。
経営していると、従業員に関して「縁」だと感じる。
「一期一会」でもある。
こういう縁がつながり、縁が続くといいな、と思う。
職人が自分の技量を金銭に換算するのは悪いことではない。
技術向上につながるから。
相応の金銭は取るべきだし、金銭を得るべく技量を磨くのも職人ならではの特権だ。
が、よく勘違いするのは、技量を自己評価することだ。
評価は他人が下す。
自己評価は過ぎると「うぬぼれ」に変わる。
こうなると常に不満だけが前に出て、評価が耳に届かなくなり、技量が上がることを邪魔するようになる。
この床屋の”新人”は、2,500円という低料金のお店であるのに、新しい職場での「意識は高い」。
歓ファンに72歳の高齢女性が勤務している。
彼女の意識も高い。
私や他の社員に前向き発言をする。発言しすぎて少々「うざったい」
私のお店なのに私のお店でなく感じることも多々ある。
すべてのことを自分という「囲い」のなかに置きたがる。
だから意識の高さには功罪がある。
が、天秤に掛けると「功」の方がはるかに大きい。
「功」は他の従業員に伝播するのだ。
歌のうまいウグイスが側にいれば、近くにいるウグイスも歌がうまくなる道理だ。
経営者の立場になると、彼女に自分の思いを伝えるだけで済む。
彼女の「意識の高さ」をどう維持させるか、私の思いをどのくらい正確に伝えることができるかが私の責務になる。
床屋の心地よいひげそりにウツラウツラしながら夢想にふけった。