今年もまた馬齢を重ねてしまう。
齢六十八。
フェイスブックでの年齢は削除したので闇雲に祝辞が届くことはなくなったが、それでも覚えてくれる方がいてプレゼントを持ってこられた。
ありがたい。うれしい。
ありがたいと思う気持ちはプレゼントではなく、覚えておいて貰ってることに対して。
誕生日がさほどうれしく(?)なくなってきたのはいつ頃からだろう。
夢や希望が達成したかどうかの結果はともかく夢や希望に向かってがむしゃらに生きてきて、ほぼほぼ思い通りに生きてきたと思う。
年相応にまだ夢も希望も持っている。
目標値が変化しながらも夢や希望は残っている。
年齢とともに体力がおとろえ、それぞれの夢希望の達成可能率は低くなってきているが、まだ夢、希望は生きている。
生きている間は、夢、希望を追いかける。
祝辞の一つに冗談半分で言われた言葉がある。
「節分前に喉を詰まらせないでくださいね。」
なぜ節分なのか、喉を詰まらせるのかの例えが不明だが、喉詰まらせて死んでしまったとしても、それも人生かと思う。
「節分を待たずして、喉詰まらせ死んでしまったとしても、寿命を全うしたという年齢です。」
と答えておいた。
死ぬ瞬間の痛みや恐れはきっとあると思う。残った体力を駆使して亡くなることに対して懸命に抗うと思う。しかしそれは肉体的な部分であって、精神的に「死」ということに、あるいは「生」ということに、自分の中には執着が無い。
誕生日は年一回の遺言を更新する日だ。
私が生きることに対して、親をはじめとして家族、友人などお世話になった方が多数いらっしゃる。その方たちへの感謝の言葉を残す日だ。
一人一人に残す言葉の内容は違っていても、伝えたい気持ちは
「私と一緒の時間を共有してくれてありがとう」