2023年 6月 の投稿一覧

原価率

厨房に隠ること半年。
ほぼ30年ぶりの厨房勤務。体力勝負の調理業務に身体が慣れるまで2ヶ月。身体にはけっこうハードだった様で、この二ヶ月で4kgは痩せた。それから冷蔵庫冷凍庫の中身や食材管理が身体に染みつくまでさらに1ヶ月。それでも身体で覚えていた技術は、 年齢的に動かなくなった身体のことを考慮しても たぶん80%は戻ってきたと思う。30年という歳月が経ったにもかかわらず、調理の応用が利く様になった。私生活で問題のあった前勤務先の調理長だったが、調理技術はずばぬけていた。あらためてこの方に教わったことを感謝。

歓には歴代調理長は全部で四人いた。一人を除いてそれぞれ素晴らしい技術を要していた。その調理長たちは私のいろいろな要求によく応えてくれて調理長の業務をこなしてくれた。
が、ひとつだけ、原価率が高かった。ヒドい時には40%近くの原価率になっていた。それぞれコストを抑えるための努力をしていたのだろうが、お客様の満足度との兼ね合い、難しかったのだろう。
私が厨房に入り、身体が慣れ始めるに伴い原価率を改善したいと考えた。

平日毎日北新宿のビル内にあるコンビニに弁当を納品している。その帰り道業務専門の食材店があり、ほぼ毎日その店舗に寄っていく。
野菜や食肉を見ながら、当日宴会の料理を考案する。食材を見て料理が思いつく。買って帰ると同食材の、仕入れ業者の納品する同製品と価格比較を自然とするようになった。
業者に対して、「これは高い。もっと安くならないか。」
という交渉も普通に話せる様になった。
築地や市場とは言わないが、市場価格に敏感になった。それと市場に出回る季節食材にも目が行く様になった。
頭の中で分かっていることと、実際に肌感覚で分かることには、けっこうな解離がある。
毎日行く買い出しでおこったメリットだ。

35%ほどあった原価率は、今は30%ほどになった。だが、ここからの1%はかなり厳しい。いろいろと工夫をするが、ややもすると31~33%に逆戻りする。

買い出しで入手できない食材にフカヒレがある。
姿煮で提供する形あるものだ。
値上がった。7月からだという。素ムキと呼ばれる乾燥品を何度も煮込みある程度柔らかくなった冷凍ものだ。
大きさによって価格は変わる。大きいほど値は高い。
お客様の要望に応え5000円コースにフカヒレの姿煮を、歓は入れている。
7月から値上がるフカヒレ1枚の原価は1200円。
5000円コースの一人前の原価が30%だとして1500円。そのなかから1500円を引くと残り300円。うーん!コースを組める金額ではない。

はてさてどうしよう。
コース料理の値段を上げるか、姿煮は出さずにコースを組むか。
お客様の悲哀こもごもの顔が目に浮かぶ・・・・。







師匠2

告別式。
お店を休んで行った。
告別式が終わり斎場へ。
バスに乗って霊柩車の後を追う。
白い骨になった。
納骨しふたたび告別式会場に戻る。
食事が用意してあり、葬式の最終場面に。
時間がたんたんと過ぎていく。
不思議と寂しさはない。
人の終わりの景色が目の前で過ぎていく。
そういう感じなのだ。
最も近い遺族、息子や娘も、もう涙はない。
ただ力をなくして呆然と佇んでいる。

私にとっても大切な、私に大きな愛情を注いでくれた方だったのだが、父の時と同じで一週間ほどして、締め付けられるような感情に襲われるのだろう。
男と女の、こういう時の感情の訪れは時間が少しズレている様な気がする。
泣き叫ぶ様な高ぶる感情は、少なくとも私はない。ただ一週間ほど時間をおいてから大きな空虚感を覚え、孤独感にたまらなくなる。うつろになる。

5年先か10年先かわからないが、今度は私の番だなと、一人で逝くことの覚悟をこうやって覚えていく。
気持ちが暗くなっているのでも、悲観しているのでもない。
ただただ自分の周りで流れる時間をたんたんと感じる。

文字通り終りを活きているんだろう。



師匠

大切な人がまた一人逝った。
前職、新宿三丁目でお世話になった私の上司(常務)だった人だ。
厨房からホールへ、私の大きな転機を助けてくれて人だった。
私が動けるまで、私が自ら動けるまで、私がすることを黙って見つめていてくれた。要所要所で身を乗り出す様に、私がやったことに対して、原因、結果を自らの分析を通じて説いてくれてた。スーッと心に落ちる言葉を織り込めて。

・日蓮宗を熱烈に信仰し、その仏門の教えを通じてわかりやすく説明してくれたが、一度も私を日蓮宗に誘うことはなかった。

・山が好きだった。山岳写真が好きだった。幾度か私を山に誘っていっしょに登った。
最初の山は尾瀬だった。当日朝、迎えに行った私のリュックをひっくり返し、着替えを中心とした軽い荷をおろし、代わりに自分のカメラ機材を私のリュックに詰め込んだ。メチャクチャ重くなったリュックを背負い尾瀬の山道を歩いた。
歩きながら足がつりそうになること幾たび。一度でもリュックを下ろすと立ち上がれないと、背負ったまま岩の上に腰を下ろす時々の休憩だった。
カメラ機材がリュックに入っているのは知っていたが、常務がその機材を使う気配はいっこうにない。
「常務、私の背中のカメラはいつ使うんですか?」
返事は
「それは雨の時に備えて持ってきたカメラだ。」
「えっ?雨が降らなかったら?使わないんですか?」
「うん・・・・。」
答えはなかった。
そんな・・・・

後日、「いつ弱音を吐くか見ていた。」と常務は話す。
何のために?
ただあの山へのきつかった思い出は強烈であり、三泊四日の尾瀬縦走だったが、山が好きになった。あのきつい思いが、その後一人で山へ行く自信に繋がった。以降何度も一人で山へ行くことになる。山岳写真ではなかったが、カメラも好きになった。

・お店には天才的な調理長がいた。店の大きな原動力だったが、考え方は職人であって経営者ではなかった。その調理長の下で働く私をホール支配人としてコンバートしてくれたのが常務だった。
接客経験ゼロの私をお客様一人一人に紹介し、機会あるごとに町会、商店会、法人会などへ随行させ、場数を踏ませた。そしていったん私を紹介すると常務は一歩控えた場所に立ち、私が後継者だと周囲に認知させていった。
私が表に立つことで恥かくこともあっただろうに、ジーッと辛抱し私の成長を待ってくれた。

かくしてこの方から私は、山、カメラ、経営などいろいろと教わった。
私の上司であり、先生であり、親父だった。
この人に巡り会ったことに感謝。

6月6日。死に目に会うこともなくこの方が旅立った。
奇しくも私の父親と同じ命日の6月6日だった。

この方の家庭環境はけっして恵まれていたとは言えなかったが、実の息子以上に私を育っててくれた。
ありがとうございます。
ご冥福を・・・。
大きな空虚がしばらくは私に残る。