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元気

新しい調理人が加入して2週間ほど経つ。
今までの調理人とは毛色が違う。54歳。
ま、まだまだ元気の盛りだ。
調理学校で料理を教えているせいか、料理のレパトリーも多く、いわゆる中華中華したものではなく、飾り付け盛り付けもオシャレだ。料理学校だけではなく、いろいろな飲食店のコンサルもやっていたせいか数値の持つ良い。考え方が理論だって居る。年齢的にも経験的にも自信が溢れている。
話す言葉も強い。きつく感じるときも多々ある。
総合的に見て「元気」なのだ。

比して私は少しくたびれている感がある。売上が少ない日々が続くとどうしても気が滅入る。10月末に商店会主催の大きなイベントがあり、個々での心労も多い。数年前まで、この程度の心労は”労”とは感じることもなかったのに、今はけっこう重い。

新加入の調理人、もしかすると救世主かも知れない。少々疲れ気味の私にかわってお店を推進してくれそうだ。元から居るホールの女性77歳も元気だ。どこからこのファイト出てくる?と思わせるほどテキパキと動く。
ホールと厨房に一人ずつ”出現”した。

テレビ番組の「この時歴史は動いた」(タイトル間違ってたらスミマセン)、まさにそんな感じで人が出てきた。

たぶん私が元気そのものの時には、
(やり過ぎだよ!)
(うざったいよ!)
と感じたのかも知れないが、今はありがたい。
私も元気のおこぼれが貰えそうだ。



新調理人1

紹介するのはまだちょっと早いのだが、新調理人が来た。

少しずつだが売上は上がってきている。まだまだ全盛期には遠いがランチも回復基調だ。弱含みで上げって来ている。どうしようかと迷いながら、年末のことも考え、
「(一日)フルの勤務はきついけど、夜だけか昼だけ勤務したいという調理師はいないですかね?」
と調理関係の知り合いに探して貰っていた。
電話での何度かのやりとりのあと、
「オレ、行きましょうか。」

この人のお父さんとは縁がある。
昔、それこそ40年近く昔、新宿にビッグチャイナと言う名前の中華料理店があった。その調理長だった方だ。そのお店の副調理長が私の調理の師匠だ。数年前に亡くなられたので実名でいいと思う。大澤さんという。
当時、大病し大きな借金を抱えた大澤氏は、ビッグチャイナの勤務が終わった後、歌舞伎町にあった「アップルハウス」というディスコの厨房を請け負っていた。
私はそこに誘われた。私も歌舞伎町の別な中華料理店で仕事をしていた。そのお店が終わった後のバイト勤務だった。

少し話しは逸れる。このディスコ、金曜土曜は2000人が来店していた。お店の決まりで一人1品1ドリンクの注文を取らなければならなかった。値段は忘れたが、ポテトチップ、唐揚げ、チーズ、サラミ、春巻き、八宝菜、エビチリなど普通にあった。ただ金曜土曜になるとメニューを10品程度に絞った。それでも一人一品だと2000品だ。私と二人しかいない調理場だった。それで2000品をこなす。
大澤調理長から、
「おい、その鶏を唐揚げ用に切っとけ。」
指定された場所に目をやると、羽をむしり内臓を取った丸のままの鶏が50羽あった。最初に言われたときは「えっ!」と思わず声が出た。文句や否定を言える相手ではない。
中華の叩き包丁は重い。その包丁で文字通り叩き切る。50羽はさすがに切り甲斐がある。切り終わったときには右手の指が痙って包丁から離れなくなっていた。切り終わった鶏の塊に塩、胡椒、醤油、玉子、小麦粉、片栗粉で味を入れるのだが、調味料を合わせられる大きさのボールはない。皿を洗うシンクに全部入れて、そこで玉子や味を入れて混ぜていた。

チーズやサラミも一口大に切れと言われたが、ものは箱単位のチーズやサラミだ。1箱50本とか100本とかあった。堅いサラミを切るには力が入る。切れる包丁でも力で切るのは、手を切る場合も多々あった。刃を添えている人差し指の第一関節、第二関節、中指の第一、第二関節には、多いときに2つくらい絆創膏が常に巻いてあった。
春巻きも一回に巻く量は500本だった。今思い出しても儲かっていたお店だったと思う。
時はバブルにさしかかっていた。

話を親父さんに戻す。
その私の師匠の親分が、新調理人の親父さんだ。その親父さんは晩年、上板橋で「アジアンキッチン」なるお店を出していた。奥様と二人で営む小さなお店だった。当時板橋に住んでいた私は時々そのお店に食事に行った。
「小籠包と餃子、エビ焼売ください。」
というと、そこから料理が始まる。皮から作るのだ。惚れ惚れするほど手が早い。私の師匠の大澤さんも早かったが、、その数倍上を行ってた。出来たての点心はいつも美味しかった。

その息子さん、昼間は服部調理師学校で教壇に月10日ほど立っている。
手の空いている(授業のない)ときは、知人の厨房を借りて点心を作り置きするそう。それを持ち帰り自宅の業務用フリーザにストックするのだそうだ。
他にもいくつかの中華料理店の顧問もやっている。
それでも時間が余っていて、その時間を利用して手伝いに来るという。

技術は確かなのだろう。職人らしく顔は少なからずくせがありそうだ。それに加えて「教える」という特技があり、「経営力」という面も持ち合わせていそうだ。

私で彼の手綱が操れるかな?



さぼたーじゅ

大谷翔平が51の51。
すごいね。あの、野球も人生も何もかも楽しんでいるって顔で、何気なくすごいことやってのけちゃう。
人も引きよせるし、ワクワクさせちゃうし。本人も楽しいんだろうけど、周りを楽しくさせるって、たぶんそこが一番の魅力なんだろうな。もちろん記録もすごいんだろうけど。

その大谷がホームランを打った裏側(バックネット)で子供が「学校サボってる」ってボードを持って応援していた。これも楽しいね。
中学、高校の頃、授業や学校をサボるって、妙な背徳感や秘密感があり、自分だけの経験値が増えた感があり、見つかったら怒られるドキドキ感と、冒険するワクワク感などいろいろと重なっていた。

学校って、学校に行くこと自体が目的だと思っていた同級生や先生がいた。
いつも、それがおかしいと思ってた。教えて貰うこと、授業で習うことが全てと、真剣に授業に向き合っていた多くの同級生は、上手に勉強に励めない私が劣等感を感じたり、またはうらやましかった。
たぶんホントはイヤな勉強をしないための理由を自分で見つけていたんだと、今では思う。

でも、学校をサボって屋上で食べるパンと、ちょっと水ぽかった牛乳は美味しかったなあ。




老鶏(ラオチィ)

身体が硬い。曲がらない。

垂直立ちで身体を曲げて、手先は床に余裕で着いた。
身体は柔らかい方だったと思う。
最近身体のあちこちでギシギシときしむ感がする。同時になんだか疲れ感が募るのだ。腰や腕、脚などを動かして軋みを緩くしようと試みる。

垂直立ちで手を床に伸ばしても、膝先までしか手が伸びない。
(えっ、こんなはずじゃないけど・・・・。)
めちゃくちゃ身体が硬いじゃないか。
脚を広げても、手先は床に着かない。
きゃー、どうしよう!
何度も何度も勢いをつけて身体を曲げ、ようやく手先が床に届く。
身体は人より柔らかだったはずなのだ。いつの間にこんな堅さに・・・。

最近歩いていても、起伏のないところでも躓く時がある。若ぶって階段を手すりなしで上り下りするが、この身体の硬さはコケる可能性が高いだろうし、受け身もとれない・・・。きっと骨折・・・・。あり得る。

妻に
「おい、朝、いっしょにラジオ体操でもやろうか。」
持ちかけるが、
「一人でやって。」
と一蹴される。

お店では週2回、大きな寸胴でスープを取る。大きな寸胴のため一回取れば量的に三日は保つ。スープを作る時は、形状から「もみじ」と呼ばれる鳥足と老鶏(ラオチィ)を使う。
老鶏 は日本では廃鶏(はいけい)と言われる。玉子を産めなくなった老いた鶏のことで、堅すぎて食肉としても適さない。が、良いダシは取れる。大抵の中華屋さんやラーメン屋はこの老鶏を使っているはずだ。

70歳を回り、身体が硬くなり
ああ、おれも老鶏に近づいてきたんだな・・・
良いダシ出るかな、オレ?

夏の終わり

8月も最終週になってきた。

身体が丈夫だった時(若かった時)は、混雑を避けられるお盆過ぎに休みを作り、登山やサイクリングの計画を練っていたが、前立腺ガン手術後は体幹を使う遊びをしなくなった。
????
億劫になったのもある。従業員が少なくなり私にかかる仕事が増えてきたのも理由だ。何かをしようとするエネルギーが少なくなったのもある。
明確な理由はないし、自分でも不思議に思うことがある。
良く言えば丸くなったのだろうが、エネルギーが湧き上がってこない・・・。
枯渇・・とまではいかないが。これが老いてきたことかな、とも思う。
それでも暑さが一段落する夏の終わりは何かをしたくなる。

山を縦走するには、そこまでの時間は作れそうもない。
思いついたらすぐに出発できる自転車も今はない。
あったとしても、100km以上走破する筋力は細った脚に残っていそうもない。
結局諦めるしかないのか・・な。






蒸し鶏

今週のAランチは棒棒鶏(バンバンチィ)だった。
この棒棒鶏に使う蒸し鶏、正確に言うと煮鶏(白鶏バイチィ)は、渋谷獅子林に居たときに教わった料理だった。
海水程度の塩加減(かなり塩っぱい)で15分煮込み。火を止め、そのままの余熱状態で20分置き、取り出す。別途スープでつけ置き用のスープ(これは普通の塩加減)に浸して終わり。
後は宴会なり、棒棒鶏などアラカルトのオーダーが来たら、仕込んだ鶏を出し、その都度それに合わせた調理をしていく。
鶏は、当時は羽をむしった丸のままを白鶏にしていた。
当時の調理長は張富財という香港から来た中国人だった。その張さん、仕上がった白鶏の尾下の肉(焼き鳥でいうボンジリ)だけを切り取りつまみ食いしていた。渋谷の獅子林は、結婚式をあげられるような大きなレストランだった。したがって白鶏も毎日5羽程度は仕込んでいた。その白鶏のボンジリだけが毎日なくなっていた。
まだ下っ端だった私、
(これはきっと美味しいんだろうな・・・)
調理長が休みの日にはオレが絶対食べてやる!と密かにねらっていた覚えがある。
私が20代前半だったころ、ほぼ50年前の話しだ。

白鶏の作り方は幾通りかあるのだが、今週はこの白鶏での棒棒鶏だった。棒棒鶏の胡麻ダレも粉チーズを加え濃厚な味に仕立てた。付け合わせは大根と胡瓜の千切り。
完食になった皿が下がってくると、ボンジリを探しにくる張さんが嬉しそうにそばに居るような、そんな気配が漂う。


お盆・夏・台風・

8月16日
金曜日だが、表題の行事(?)が重なる。
営業してもしなくても売上的に厳しい日程が毎年続く8月。
10~12日が土日月と続く曜日だったために歓の夏休みはこの日に決めた。
お盆だが、まだ平日の13~15日の方がお客様が来やすいだろうという読みだったが、状況はあまり変化がなかった。10日から18日までの連続での夏休みにしても大丈夫だったかも・・・。
自分で出した決断なのに、お店のヒマさが憂鬱にさせる。
折からの雨も手伝い、気分は重い・・・。

この文章をパソコンを打つこんでいる私の脇に置いてあった電話が鳴った。
(どこの営業だ?お盆くらい休めよ・・)
と、心で毒づきながら受話器を取る。
「今からランチ14名なんですけど、空いてますか?」
「空いてますよ。ガラガラですよ。」
とたんに心は、外の雨とは打って変わって晴れ模様。

小さな事で一喜一憂する自分に我ながらあきれてくる。



鷹揚さ

男の汗臭さがイヤだと、ネットで流し、それが原因でフリーアナウンサーを契約解除されたという女性のニュース。
男の立場からだって男の体臭イヤだ!
この女性アナウンサーの言ってること同意します。正しいです。

言葉にする、ネット上(公)で発言というところで非難囂々。
そして契約解除。
どう考えてもやり過ぎ。
契約してた”事務所”って、普通に考えて会社であり、フリーアナウンサーはその社員的な立場でしょう。本来なら会社が社員を守らなきゃいけないのに”契約解除”。

非難囂々した人たちって、どうせ匿名でしょう。
こういう人たちって利口ぶって小っさな正義感を言ってるだけなんだから、ほっとけばいいのに。こういう人たちの小っさな言葉に過剰(大きな)反応。
きっと小っさな会社なんだろうね。

マスコミもこんな小っさな事をいちいち取り上げる。
そんなにニュースないのかね。
あなたたちが世の中を小っさくしてるよ。

なんか世知辛いね。
いつからこんなに鷹揚さがなくなったのかね。
電車(その頃は汽車)の中でタバコぷかぷか吸ってた時代だってあったのに。

牙も爪もない生身の人間は、ホントは弱くって、お互いを守らなければ生きていけないのに。
もっと優しくなれよ。
と思う今日この頃。
年を取ってくると、ホント自分の弱さがつくづくわかってきてるもんだからね。




ウナギ弁当食中毒

横浜、京急百貨店、ウナギ弁当での食中毒。
約160人の食中毒が出たというから、けっこう多い。
折からの暑さで体力消耗、少しでも元気にと考えてウナギ弁当を購入したのだろうと思うが、逆に体力を奪う結果となった。

食中毒を出したお店(会社)は自主的に営業停止にしたとニュースで報じている。会社の役員が揃って謝罪の映像がニュースで流れる。
同じ飲食の世界に身を置いている立場として身につまされる。

この暑さ、厨房もかなり暑い。服の中に空気を送り込む「空調服」を着込んで仕事しているが、ランチのかき入れ時は体中に汗が噴き出す。中華の厨房は事さらだ。
注文に間に合わせるために、食材は作業台の上に並べる。
エビ、いか、肉、各種野菜・・・。中華では刺身のような生の食材はないし、直前で食材を油通し(揚げる)する。和洋中の中でも比較的食中毒の起こりにくい業種だと思う。それでもこの暑さは食材には気を遣う。作業台に並べた食材を入れてあるステンレスの器には氷を差し込む。その氷もこの暑さで数十分で溶ける。頻繁に氷を補給する。
野菜はともかく肉類を切ったまな板はすぐそばにある洗い場に持ち上げて洗う。
中華のまな板は、丸くて大きい。重量もかなりある。
「よっこらしょ。」と声が出るほど力を入れてシンクに持って行き洗う。
そこまで気を遣う。
食中毒を出したら終わりなのだ。最低でも1週間は営業できなくなる。飲食店にとってはまさに死活問題だ。

それでも(食中毒が)出るときは出る。
無責任な言い方をするが、お客様の体調が悪いときだってある。食中毒が避けられない時がいつ訪れるか、運もある。
めちゃくちゃきれいなお店、厨房にしていても、なぜか繰り返し食中毒を起こすお店や調理人がいる。神経質なくらい清掃に努めていても食中毒を起こすお店や調理人がいるのだ。
運も確かにある。
私は飲食の世界に身を置き50年経つが、幸いまだ食中毒を起こしたお店で仕事をしたことはないし出したこともない。

食中毒を出す確率を下げることはできるだろうが、100%出さないというのは不可能だ。
デパートや社食などに弁当などを入れる会社は、衛生面のハードルはかなり高い。そういうことを要求されるし、それが出来て初めてデパートなどの取引ができる。この会社もそういう要求に応えてきた会社だったんだと思う。
それでも食中毒は起きる。

あらためて、我が身のことと思い、気を引き締めて、調理にあたろう。


食欲

この暑さは来客数はあまり期待できない・・・。
自分自身が歩き回りたいと、まったく思わない。お客様だって同じだろうと、当然ながら売上の少なくなることは憂う状態なのだが、ここは一番耐えるしかあるまい、と覚悟を決めている。
が、予想に反して月曜日の今日はランチが混んだ。それも正午近くから一気にお客様がいらっしゃった。厨房も追われたが、ホールは77歳の女性が一人で切り回している。おそらく数組は入りきれないお客様を返したろうと察する。

厨房にて。頭も身体もフル回転して注文に対処するのだが、この暑さ、厨房も半端なく暑い。中華に従事していて、厨房の、特に夏の暑さは覚悟しているのだが、噴き出す汗を抑えきれない。「空調服」という左右の腰上当たりに扇風機のついている服を着込んで仕事をしているのだが、焼け石に水。

夕方になり予約のお客様がいらっしゃった。昔からのお客様だ。割と痩せたタイプのお客様なのだが、肩、背中からお腹当たりまで汗でびっしょり。
心の中で
(よくぞ、この暑さの中、来店くださいました。)

そういえば、昨日のお休み、妻と二人で久しぶりのトンカツ屋「王ろじ」に行こうとしたら、お店が見える角を曲がったところで看板を消えて、「営業中」の札を裏返しにするのが見えた。まだ19時。
あらぁー
(不義理している)久しぶりのお店は他にもあったのだが、この暑さ、早く涼みたくて、すぐそばの、ヒマそうなイタリアンのドアをくぐった。いろいろとお店を物色する意欲は、この暑さが消し去ってくれた。
でも、伊勢丹界隈は若い人はゴチャゴチャいる。元気だなぁと思うと同時に、あちこち物色する意欲も元気さゆえと痛感する。

高齢者には危険な暑さがまだまだ続く・・・・・・・。