久しぶりの友

正確に言うと友達じゃない。
同い年なのだが、大変お世話になった方だ。
大学の教授をされている方だ。
70歳で教授の仕事も定年だと、今日会うなり言われた。
東京と京都の大学で教壇に立たれている。
ワインに詳しく、美味しいものにも詳しい。この先生といろいろなレストランに食べに行った。お互いに美味しいところ、美味しい料理の披露合戦になっていた。
途中コロナ禍もあってか、久しぶりの、数年ぶりの予約だった。宴席は6名。
5000円のコース料理を頼まれていた。
それなりに気を遣った料理をサービス気味に出した。
宴席のお仲間は先生や私と同年齢か、ちょっと上の、いわば高齢者にちかいメンバーだった。

料理が出終わり、宴席の近くに行くが、仲間内の話しに興が乗ってか、私への声かけはなかった。
そして、宴会は終わりを迎え、それぞれがコートなど帰りの身支度に。
先生のそばに行き、お礼を伝える。
「京都での生活が中心になるし、東京へも来るけど、昔みたいには来れないね。梅さんも元気で頑張って。」
・・・・・・
料理に対しての言及はなかった。というか、そういうものへの興味より余生、残り時間の使い方に気が向いていた。
容姿も立ち居振る舞いもスマートな先生だったのだが、その先生からアクが抜けかけていた。アクと言うより欲がなくなってきているようだ。
70歳という同い年としてその気持ちはすごーく分かるのだが、やはり寂しい。

「梅さん、元気で・・・」
去り際にふたたび言われた。
「先生もお元気で。」

う~ん、この先生とは違う挨拶で別れたかった。
「京都で美味しいお店を見つけたから、梅さん、今度いっしょに行こうよ。」
お世辞でも、叶う夢でなくてもいいから、そんな言葉を聞きたかった。

なんか70歳になったら、寂しいことが続く。
そのことが余計寂しい。



友の訃報

同級生よりメールが入った。
「訃報」とのタイトル。
えっ、誰・・・?
メールを開くと、小中高いっしょだった友人の名前があった。
「肺がんのため1月21日に亡くなった。」と書いてある。
明るい奴だった。本人だけでなく周りまで明るくしてくれた奴だった。
すこぶる元気だったときの顔だけしか思い浮かばない。
そう言えば昨年11月開催の同窓会に彼は来てなかった。
もうあの時から闘病生活が始まっていたのかも知れない。
なぜ彼の不在を聞かなかったのか、今になって後悔する。
同級生だから同じ70歳。
手の届く時間帯で私にもやってくる死期だ。
そういう年齢なのだ。
わかっているんだけど、私にはまだその実感がない。
だからいっそう友人の死はショックだった。
・・・・
・・・・
家は福島県郡山市にある。
通夜告別式ともに簡単に行ける場所ではない。
何も出来ない。それが余計に悲しい。
ただ、ただ、ご冥福を。







バンビ

新宿に「クリアソン新宿」というプロサッカーチームがある。
その2024年新体制発表会というのが西新宿であり、妻と二人で出かけた。
クリアソン新宿には、商店会のイベントでもお世話になり、私がサッカーが好きだったこともあり、心から応援しているチームだ。

終わって会場を後にしたのが16時頃。中途半端な時間だったが、お腹がすいた。
「どっか食事でもして帰ろうか。」
と言ったら、妻もお腹が空いてたらしい。
「久しぶりにバンビに行く?」

昔、新宿サブナードにオープンした「ダイナステイ好(はお)」というお店で仕事したことがあった。ガスを使わない全て電磁調理器という、強い火力を必要とする中華では珍しいお店だった。
そのお店の真向かいにあったのがステーキとハンバーグのお店「バンビ」だった。店長(名刺は常務)の菅原さんには当時からお世話になり、仲良くさせて貰っていた。もう40年ほど前のことだった。

バンビはカウンターがあってオープンキッチンだ。菅原さんが働いている姿は丸見え。 まだ元気で働いている。
聞いた。
「菅原さんて何歳になったの?」
「もう76歳だよ。」
いい加減くたびれている70歳になった自分と比べて、店長に
「もう仕事辞めても大丈夫じゃないの?」
「そうなんだけどね、仕事しているのが楽しいんだよ。」
”借金まみれ”が辞められない理由の大部分を占めている私なのだが、私も仕事は大好きだ。自分がまだまだ成長する余地を発見できるから、仕事は辞められないし辞める気も当分ない。
菅原さんも同様らしいが、それにしても元気だ。たぶん仕事あることが元気さを保たせてくれてるだろう。

菅原さんとのおつきあいは長い。
調理人として働いていた昔、その当時の親分から新規オープンを手伝ってくれと言われて出向いたお店だった。サブナードという途中休憩が出来ない性質の立地で、それでもお客様の来ないアイドルタイムに厨房の中に段ボールを敷いて寝ていた。電磁調理器だらけの厨房は異様に暑く、汗かきながら昼寝していた覚えがある。当時の30代半ばの私もアルバイトもみんな若かった。菅原さんもおそらく40歳代・・・・。バンビの歴史も長くなったが、菅原さんも相当長い。

お互い、もう少しだけ頑張ろうね。




倉庫の片付け

倉庫を片付ける。
お店の近くに倉庫を借りていた。
町会長の好意で格安で借りていた。
その倉庫が建て壊しするそうだ。
昨年末に告げられていた。
忘年会を控え、あまつさえ多忙を極めていた時期だった。
自分じゃ、自分たちだけじゃ片付けは無理だとわかっていた。
業者を手配した。

閉鎖した後楽園店で余った皿、調理用具、グラス。
余分にストックしていたお節の箱。
イス、冷凍ストッカー、冷蔵ショーケース、ロッカー
配達用の弁当箱1ケース。
はては、商店会で使っていた交通規制の立て看板。

業者が来た。
手際が良い。トラックで来て小一時間。
パッパッと運び出す。
・・・・

なぜだか胸が締め付けられる。
食器のひとつひとつに。
グラスのひとつひとつに。
イスや調理道具のひとつひとつに。
けっこうなお金をかけて購入した数々。
購入した当時をひとつひとつに思い出す。

どこかで思い切らなければ、この倉庫内の数々は片付かない。
断捨離だ。
わかっているのだが、胸はキュンとする。
片付ける人たちがいなけりゃ、潤んでいた目から・・・。
う~ん・・・・。
キュンキュン・・。
幾度となく戦ってきた戦利品。戦い抜いた戦利品。
時分の身体から武器や鎧を剥ぎ取られる感覚・・。

断捨離だ。
ひとつひとつ心からの断捨離だ。








腹減った

 今度の風邪は実にしつこかった。
間隔はだいぶ空くようになったが咳はまだ続いている。
ただ鼻水が出なくなっただけでもずいぶんと楽になった。
背中の痛みもない。ま、身体は普通に戻ってきた。
お正月3が日そしてそのあとの6~8日の連休すべて寝ていた。
売上や支払いのことを考えると不安は募ったが、どうにもこうにもやる気がでない。ケセラセラ。どうにでもなれ、という心境だった。
風邪の引き始めは、忘年会がピークになろうとしていた12月20日頃だったと思う。実に半月は風邪と付き合っていることになる。

身体の元気が戻ってくると、日常的に腹が減ってくる時間が増えてきた。
げんきんなものだ。身体がパワーを求め始めてきているのが感じる。
うん、うん、この調子だ。

さてさてこの元気をどこに出そう。
料理にも、会社のことにも、商店会のことにも、気が回り始めてきた。
ただ、お客様の数がついてこない。部分的に忙しくなることはあっても売上の数値の伸びは鈍い。まだコロナの最中だった去年すら下回っている。
さもありなん。あれだけ休んだんだもん。納得はするが、月末の支払いなど考えると、焦る・・・。

こういう時は呑もう。
すると妻が
「調子に乗ってるんじゃないよ!自分の歳を考えないさいよ!」
まったくだ。そのとおりだ。
じゃあ静かに、ちょっとずつ呑もうかね・・・。










2024年元旦

あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

厨房に入りほぼ1年が過ぎました。
振り返れば30年ぶりの厨房勤務は、やっぱりきつかった。
調理勘を取り戻すのに数ヶ月。この数ヶ月で体重は5kgほど減。

そういう私を気遣ったのか、コロナの余韻(?)か、お客様の数が伸び悩みます。特に6月~9月ころの閑散ぶり。私の身体には優しかったが、急激に資金はなくなっていく。別な意味での心労は増えていきます。
12月は半ば過ぎから忘年会らしい繁忙さになってきました。
が、同時に身体への負担もかかり、ヒシヒシと(もう若くない・・)ということを思い知らされました。70歳は体力勝負の歳じゃない!
追い打ちをかけるように風邪に罹患。熱や咳はおさまったものの大晦日の仕事終了以後、ほとんど布団の中に伏せってました。

さてさて新年はいかがな一年になりますやら。
資金面でも年齢面でも「廃業」を頭の片隅に入れながらの操業。
(ま、何とかなるだろう・・)的な見通しで頑張ってみます。
今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
お客様だけが心の支えです。










風邪ひいた

風邪を引いた。
寒気が止まらない。
(ヤバいな・・・)
厨房で鍋を振れるは私だけ。料理が止まる。
忘年会はピークを迎えている。
どう考えても今は休めない。

寒気が止まらない身体でランチの準備がほぼ終えた。
が、ランチだけでも休もうか・・・という考えに至る。
よくよく考えると、これがベストな方法に思える。
ランチの客数は40名様前後。売上で4万円ほど。
これさえ思い切れば最小限度の被害(?)で押さえられる。

出社してきたスタッフにランチ休業を伝える。
早めに教えれば良かったけど、ギリギリまで迷っていた旨を伝える。
私の身体の替えがいないことをみんながあらためて知る。

いつもは冗談で
「社長が走り回っている会社は危ないんだ。社長が遊んでいるくらいの会社の方が安心だ。」
と話す。社長が遊ぶことを容認しているわけじゃないが、一理あると思っている。

うん、ランチ休もう。身体があって、仕事が出来る。



フラメンコダンサー

昨夜閉店時間を過ぎてからある女性が来た。
長嶺ヤス子さん。
まだ現役のフラメンコダンサーだ。ただ旬はとうに過ぎている。88歳。
YouTubeでもウィキペディアでもすぐに見つけることが出来るくらい著名なダンサーだ。
さすがに容姿は年齢を隠せないが、88歳とは思わせないくらい元気だ。
年に数回、福島猪苗代湖の実家から公演のために東京に出てくる。
つい最近舞台を見に行った。
スペイン人の男性ダンサーと踊るのだが、ステップは少ない。
なぜここまでして踊るのか、と思うが、彼女のフラメンコに対する情熱はすごい!ダンスを通して自分に対しての厳しさをとことん追求している。
この方の前では、私が自分に対しての甘さを思い知る、というより突き詰められる。
また女性としての一面を彼女は前面に出す。
フラメンコでの、女性を表現するのに、いくつになっても「女性」が必要なんだと思う。枯れてないのだ。

お店は閉店し、火を落としていたために、彼女を誘って二人で近所のイタリアンに飲みに行った。
「このお店は私が一番落ち着けるお店です。そして美味しいです。」
ヤス子ちゃん(こんな呼び名が好きなようで、私もそう呼ばさせて貰っている。)も気に入ってくれたようで、カウンターに並んで座り
「私と飲むの、初めてだわね。楽しい?」
としなを作る。
二人でワインを傾け、乾杯。
やがて料理がでて来て食事が始まる。あまり食べられない、と言うが、このお年にしては食欲旺盛だ。あれだけ動き回る仕事柄、女性とはいえ筋力は必要なのだろう。そういえば背筋もピンとしている。
以前私のお店で食事をされた折、酔った勢いでヤス子ちゃんの胸に私の手を引っ張る。触らせる。
ビックリしたのと、他の方の手前、あわてて手を引いたのだが、おっぱいは豊満だった。

イタリアンでの楽しい時間はあっという間に過ぎる。
このイタリアンも閉店が近づく。
来る前から雨が降っていたのだが、傘をさし彼女の滞在先のホテルまで送っていく。自然とヤス子ちゃんは私に腕を絡ませてくる。欲するがままにしていたが、ロマンチックではなく、介護・・・と言っちゃヤス子ちゃんに失礼か。

ヤス子ちゃんを送り届け、ホテルにきびすを返すと、安堵のため息がホーッと。
ため息は白い色に変わって、冷たい小雨の中に 消えていく。
少しは気を遣っていたようだ。








怖い手紙来てるよ

 妻が手紙を持ってきて言う。
「怖い手紙来てるよ。」
手紙は「東京地方裁判所」から。
何か訴えられる・・・という心当たりはない。
開封した。
紙が三枚。その一番上には
「破産手続開始通知書」とある。
????
数行下に
破産者 株式会社○○○○
代表取締役□□□□
会社名も代表取締役の名前も、どこかでみたような・・・
思い出すまで数秒。
あ!

歓ファンが平日毎日弁当を配達しているコンビニがある。
セブンイレブンとかファミマとか違って、ビル内に設置された、ビル専用の小さなコンビニだ。
弁当個数は惣菜を含めて10個ほど。メニューは週単位で毎日変わる。
そのコンビニの会社名が今回の倒産会社名だ。コンビニの屋号でなかったためにすぐにはわからなかった。
精算は末締めの翌月末払い。

妻が月末である今日、銀行で記帳してきた通帳を確認する。
振り込まれてない。
えっ、えっ?
てぇことは、支払って貰えないのは2ヶ月分。
小さなコンビニで、個数も少ないのだが、月単位でまとめるとほぼ10万円ほど。1週間ほど前にコンビニ店長から、ビルのメンテがあるのでしばらく弁当はお休みさせてください、と伝えられていた。今月はいつもの月より受注数は少ない。だが、2ヶ月分あわせて15万円ほどにはなる。
えっ、えっ!
今日は当社の給料日と家賃の支払日だ。
今月は用意してあるが、・・・・
困る・・・どうしよう・・・

文面をあらためて見る。
債権者案内とあり、弁護士名や債券内容の確認、債権者案内状の地図も同封されている。

当社もコロナ禍が終わっても厳しい毎日が続いている。他人事とは思えない。
なるほど、倒産とはこういう手続きが始まるのか・・・。
胸がキューッと締め付けられる。

前述したが、今日は給料日。社員の給料は準備して渡すだけにしてある。
今月も無事に終わる。給料を渡して終わる。
ありがたい・・・と胸を締め付けられつつ、ホッと胸をなで下ろす。






同窓会

 先週日曜日高校の同窓会があった。コロナ禍を経て四年ぶりの同窓会だ。
毎年毎年開催していた同窓会、おそらく14~15回ほど回数を重ねていた。
遠く離れた鹿児島、加治木という町の高校同窓会。私らの学年の総数は420名程度だったはずだ。それが9クラス。
同級生は関東近辺に連絡取れていた人数で40名程度はいたと思う。そのうち毎年20名前後が集まってきた。多いときで30名近くが集まった。

今回17名。
ほぼ四年ぶりに見る顔、顔、顔・・・。
涙が出てきたくなるくらい嬉しい顔、顔、顔・・・。
打算を考えなくてもいい、心が一番素直になるメンバーだし、私が一番元気を貰えるメンバーだ。
心は一瞬で鹿児島、加治木の高校時代に戻る。

調理人に辞めて貰ったために、会の冒頭から私は厨房にて仕事。
みんなには申し訳なかったけど、みんなの胃袋状態は考えずに、料理は早め早めに作って出していた。

男女ほぼ半数ずつ。クラスの違ったメンバーでいっしょに机を並べたことのないメンバーもいたけど、ひとつの教室にいる錯覚を覚える。今では思い出しもしない勉強にいそしみ、ひとつの事をいっしょに「覚える」「考える」という共通の作業をしていた連帯感が蘇る。

年齢的に亡くなったメンバーのことも必然的に話題に上がる。
そしてさほど遠くない、10年、20年くらいの未来に、私も、ここに集まるメンバーもその仲間入りを順次するのだろう。
でも、でも、だから、だから、みんなの顔を見つけることができたこの時間がいとおしい。

全員が70歳になって、私も70歳になって、またみんなの顔が見たいから、またみんなから元気を貰いたいから、もう少し、もう少しだけ頑張ってみようと思う。

物価高騰。家計に響き、まっさきにお父ちゃんの小遣いが減らされる。その小遣いの使い道で外食が一番最初に経費削減される。
難局は続く。
「頑張る」意思は良いとして、こんどは「頑張る」具体的な方法をみつけねば。