花器

商店会のメンバーの一人が引っ越した。
今日はその引越日だった。
新しい会社の所在地は西新宿。
住友ビルセントラルパーク・ラ・トゥール新宿。
新宿中央公園の方南通りをはさんだ真向かいにある。
鏡張りの壁面が、真夏日の痛くなるような日差しを反射させて眩しい。
エントランスには受付が数名。言わずもがな高級感が漂う。
(後で聞いた話し。家賃は50坪115万円/月。後楽園に出店していた当時の家賃と同じだ。私の場合は店(テナント)が家賃を生み出していたが、彼の場合は場所自体はお金を産まない。)

会社はその6階にあった。
開業は明後日の月曜日。社内は引越の真っ最中。
大小の段ボール。机、イス、・・・・。
目を和ませてくれるはずの観葉植物が部屋の片隅で、置き場所が決まってない事務用のファクスやプリンターと肩寄せ合うようにしている。

熱い。
聞けば手違いでまだエアコンが通じてないそうな。
熱気ムンムンの部屋で新オフィスの配置を手分けしてかたづけている。
半袖シャツや腕まくりが黙々と働く。

部屋の熱気とは違う、彼らの熱気を感じてしまう。
みな若いのだ。30歳代~40歳代。社長だってまだ43歳。
熱気といっしょに勢いを感じてしまう。
おそらくこの会社は伸びる。間違いなく伸びる。
これだけ人が集まる会社がそうない。

新橋のお店を出していた頃。たぶんあの頃が私に一番人が集まってきていたような気がする。私にも人が集まる勢いがあった。勢いに乗って走る体力も元気も私にあった。
その頃を思い出す。

今日は引越祝い、新スタートとしてのお祝いを持って行った。
引っ越しした社長との共通の知人でもあり、昔は大きな会社の経営者であり、飲み仲間である彼女が所有し、今は私の手元にある大きな花器を彼の引越祝いとした。応接室に置けばかなり映える代物だ。おそらく数百万の価値はある。彼女は大きな花の中でもカサブランカがこの花器に一番映えると言う。

喜んでくれた。
同時にこの花器が繁栄の印しとして私から彼の元へ。あるべくして主を見つけていく。
花器にとっても良かった。






いろいろとやれること

ホール中心で仕事をしていた頃は、例えば芸人を呼んで落語だったり漫才だったりマジックだったりとやっていた。そういう友達もいた。
厨房に入り、それが出来なくなった。
「今度は何をやるの?」
と今でもお客様から聞かれるが、言下に
「無理です。」
とにべもない返事をする。
芸人さんを手配し、そのための案内状を作り、顧客に発送する。相手によっては電話やメールで懇願して来て貰う。企画、実行、集客、そして当日の紹興酒カメ開けを含めたイベント進行・・・。これに料理を考え仕入れ仕込み・・・どう考えても無理すぎる。

厨房に入り、お客様と接する機会が断然減った。
お客様の顔を見ることが出来ない。
楽しいことがあったのか、疲れているのか、話したくてきたのか・・・。
何も分からない。
今一番悔しいのは人と接する機会が少なくなったことだ。

でもね、今はね、ちょっと辛抱するときなんだろうね。
そう思っているんだけど、そう思い込もうとしているんだけど。
やっぱり時にはお客様といろいろ話し込みたい。

もしかしてお客様もそう思っているのかも知れない。
私と話したいと・・・。
でも、何回かお店にいても厨房の奥から出てこなければ、お客様も離れるよね。
・・・・・

今日は立秋。
物思いにふける秋が始まった。
メランコリーな秋が始まった。







整理整頓

猛暑も手伝っているのだろうが、お店がヒマだ。ヒマでも一通りの仕事はある。
ヒマだから余計な仕事は増えているのかも知れない。特にこの暑さ、食材管理は非常に気を遣う。
ほとんど毎日冷蔵庫を整理する。冷蔵庫の中の調理済みの材料、切り込みが終わった材料、洗った材料、それぞれの食材によって、それぞれ置く位置も変わる。
例えば、豚肉だけでも、生肉の状態、冷凍した状態、細切りやスライスした状態、それに下味をつけた状態、麻婆豆腐の肉などはスープを入れ豆腐を入れ多少の味の調整をする、ほぼ完成状態、焼き豚のように切って並べるだけの状態、といろいろとある。これが鶏肉や牛肉、海老、いかなどそれぞれに上記の状態にあり、置く位置や入れ物などで区別できるようにしている。そしてこれに野菜が加わる。野菜は傷みが早い。しなびたり、色が変わったりする。管理温度も肉などに比べて少し高い。デリケートなのだ。

正直言って一人で管理するのはかなり厳しい。
言い分けじゃないが、年を取ってくると記憶が曖昧になってくる。忘れるのだ。
あれ、あの食材、まだ残ってたはずだけど・・・
あれ?これ、いつ切ったやさいだっけ・・・
このパターンは加齢とともに多くなってくる。
整理する時に日付やグラム数などを併記してバットやボールにつけておくようにしている。若い時にはまずやってなかったルーティンだ。それほど記憶力は弱くなった。
だから余計若い時より整理整頓の意味が重みを増す。
本来2オペ、繁忙期は洗い場も入れて3オペを想定した厨房だ。
冷凍庫、冷蔵庫は全部で5台ある。全て業務用の大きなものだ。
これだけあると、時に冷蔵庫や冷凍庫の奥底にいつ仕込んだのか思い出せないものを発見する時がある。
食材の鮮度をみて、場合によっては捨てる。料理を提供する立場としてこれが一番悔しい。管理できてない自分の無能さを確認させられる。

ヒマさは、いろいろと考えさせてくれる。良い意味でも悪い意味でも・・・。



















食材の値上がり

飲食店の原価率はだいたい三割といわれる。
効率の良いラーメン店などで20~25%程度。
歓の原価率は、調理長を雇っていた時には35%程度だった。月によっては40%に迫っていた時もあった。
何度も「今月の、今時点での原価率は○○%だ。」と伝えた。が、なかなか下がることはなかった。
自分で厨房に入り、原価を管理し始めると、この原価率を下げる作業はけっこう厳しいということがわかった。歴代の調理長たちもいろいろと悩んだんだろうと察する。
料理を作るだけだった、その調理長たちの比して私の利点は買い出しに行けることだ。平日は北新宿にある個人のコンビニに弁当納品が毎日ある。その帰り道に業務用食品卸の店に寄れるのだ。
店に納品する業者との値段を比較し、こまめに仕入れした。お店に納品している八百屋には悪いが野菜類の仕入れはかなり改善したと思う。
原価率35%を下回るようになるのは早かったが、そこからの1%はかなり厳しかった。私が厨房に立ち半年たって原価率32%。

お店に来るお客様の顔を見てると、原価率(利益)よりも美味しいと言ってくれる顔を見たくなる。いきおい原価率そっちのけで料理を出すことも多々。
この辺のバランスを取るのが非常に難しい。

お客様が一番喜んでいただけるフカヒレの値上がりが半端ない。値上げは二段階目だ。高い素材は業者も気を遣って値上げは小さい範囲で上げてくるのだが、業者側も限界なんだろうと思う。
小さいフカヒレが一枚700円程度で仕入れしていた。これが1枚980円になった。
今まで4000円コースからフカヒレを出していた。4000円コースの原価はおよそ1200円。ふかひれで980円を使うとのころ200円強。コース料理は少なくとも6品は提供する。フカヒレ以外の5品を200円で・・・・・。無理!
小さいフカヒレなのだ。手のひらの半分くらいの小ささなのだ。そんな小さなフカヒレすらコース料理に組み込み無のは厳しすぎる。

値上がりは当然フカヒレだけではない。ほぼ全品目が値上がった。低価格の優等生だったタマゴも上がった。

日経新聞には賃上げや最低賃金などのニュースが流れる。まして人手不足の昨今。多少の時給を上げても人は集まってこない。大手のチェーンは体力に任せて数百円の賃上げをしてくるが、小規模店舗は数十円上げるの四苦八苦する。上げられないお店も多いのではなかろうか。
物価高に賃金が追いつかない「実質賃金」はひらく一方とニュースは伝えるが、一般的にベースアップは年一回だ。物価高との差が小さくなるのは少し先になる。生活に反映されるのはどうしても時差がある。逆に真っ先に切り詰めるのは亭主の小遣いであり外食だ。

コロナ禍の影響が残り、物価高と家庭や会社の節約状態から抜けるのは、もう一年あとか。




弟がいる

私は男ばかりの三人兄弟の長男だ。
兄弟は2歳ずつ年が離れている。
私と三番目が東京に住んでいる。
2歳ずつ離れているから、三番目とは4歳差がある。
物書きを生業としている弟だ。メインは週刊誌の記事を書いているのだが、三冊ほど上梓したこともある。年齢的に学校でいっしょにはやれなかったが、兄弟そろってサッカーをやっていた。二人ともサッカー好きだった。
単身赴任が続いた私は、自分の息子には一週間に一度帰った折に近所の学校の校庭でいっしょにサッカーボールを追いかけて思いでしたかないが、弟はその息子のサッカーチームのコーチを仕事片手間にやっていた。話しを聞く限り熱血コーチだったようだ。

久しぶりにその弟が来た。
久しぶりの弟は顔色が悪かった。ガンを患い闘病生活を今も送っている。
兄弟ゆえに遠慮はない。
「おい、顔色悪いなぁ!」
「そう?抗がん剤のせいだと思う。でも一頃よりはずいぶん楽になったんだよ。」

私も数年前に前立腺ガンを患ったが、全摘し今は完治している。入院を数回、身体を切ったのが数回、そのたびに身体の衰えは加速する。
そんな私だが、今の弟より顔色も見た目も健康そうには見える。この歳になってくると加齢や高齢との戦いになる。逆に言えばいつお迎えが来てもおかしくない年になってきた。
だが、四歳下の弟に私より先に逝っては困る。何が困るか知らないが、とにかくダメだ。

術後や健康状態を聞く。最悪状態は回避したようだ。今はその養生途中のようだ。ホッとする。
あらためて弟の顔を見る。
黒い。禿げている。残っている毛も白いのばかり。タバコのせいで入れ歯を装着しているのだが、その入れ歯が顔の割合からして大きい。このことは以前から「歯を替えろ。見た目は大切だぞ。」と忠告したことがあったのだが、その入れ歯が支えている歯茎から落ちそうにズレている。顔がコケているのだ。
人のことは偉そうに言えないが、弟も見た目を気にするタイプではない。私の言うことは歯牙にもかけない。

そして、久しぶりの兄弟談義に時々弟は席を外す。店外に設置してある灰皿の元、タバコを吸いに行くのだ。
私の妻が、「電子タバコにすれば・・」と言うも、鼻でせせら笑う。弟が初めてタバコを吸い始めたのは中学の終わり頃だったと思うが、以来タバコの銘柄は一貫して「ハイライト」

「もうタバコは・・・」
言ってもダメだし、たぶんタバコを止めることに堪えられなり、結果人生を縮めそうだ。言葉を呑んだ。

でもでも長生きしろよ。少なくともオレより先に逝くなよ。








眠い

なぜかやったらめったら眠い。

厨房に木製の丸椅子が置いてある。普段は椅子の上に調理用のボールと金ザルが重ねてあり、洗い物(主に調理用のステンレス器など)の水切りとして使っている。
座るには少し硬すぎる椅子に腰掛け、目を閉じること数秒で眠りに落ちる。「オーダーお願いします。」や「いらっしゃいませ」の声で起こされるのだが、うとうとから現実に戻った時はけっこう頭の中がスッキリしている。短時間(数秒数分)でも睡眠の効果はあると思う。

疲れているのかも。高齢者ゆえかも。昨日の酒が手伝っているのかも。夏の寝苦しさのせいかも。
何にしても特技「居眠り」が身につき始めている。
こんなのを特技にしなくても、いずれ「永眠」という長い長い「居眠り免許証」が無料でもらえるのにね。

70歳という年齢はすぐ疲れるくせに元気のチャージはいっこう満タンにならない。
厨房にオーダーが入るとほぼ一人で仕込みの材料を揃える。一人前ずつ冷凍してある肉類をレンジで解凍にかけ、解凍するまで付け合わせる野菜を冷蔵庫に取りに行く。焼きソバや揚げ物など火を通すのに時間がかかるものがあれば、弱火にかけておく。頭がフル回転する。
朝の仕込みもエネルギーがけっこう貯まっているので仕事ははかどる。ほぼお昼までに仕込みを終える様にしている。
が、元気なのもお昼まで。前述した様に枯渇したエネルギーを補填するがように居眠りがちょっこちょっこと始まる。

・・・
・・・・・
あ、また寝てた・・・。






結婚記念日

昭和54年7月に結婚した。
今日がその記念日だ。数え間違ってなければ今年は45回目の記念日になる。
長い。
よく続いた。
お互い飽きもせず。
たぶんこれからも二人で歩むのだろう。

よく飲みに行く仲間が私のことを「自由人」と表現する。
私が周りを斟酌せず勝手気ままに行動するらしく、その勝手さを「自由人」と表現しているらしい。
「そんなことはない!」
と声を大にして言いたいが、ま、人と同じ事をしたり、頭ごなしに言われるのも好きじゃなく、妻からは「天の邪鬼」「ひねくれ者」と言われることが多いから、あたらずも遠からずなのだろう。

その自由人と45年間連れ添ってくれた。
よく我慢してくれたと思う。
仕事だって順風満帆でない時が多く、苦労も多かっただろうと思う。
人生の七割以上は”自由人”に振り回されていたはずだから。

子供たちが巣立っていくとともに、板橋の一軒家から職場近くの神宿に住まいを変えた。休みの日はほぼ妻と一緒だ。
これでお互いの仕事がなくなったら、妻との時間は極端に増えるのだろう。

ときどき美容室に行ったりして妻の髪型が変わったりするのだが、自由人たるせいかその変化に気がつかないことが多い。
ふくれた顔をして
「私のこと何も見てないのね。」
「いや、そうじゃない。お前は空気みたいな存在なんだ。とても大事だし、絶対に必要な存在なんだが、いなくなって初めてわかる大きな存在なんだ。」
またある時は
「手や足は、自分の行動に合わせて無意識に動くだろう。もうお前はオレの手や足といっしょなんだ。切っても切れない存在なんだ。でも、ふだんは自分の手足を意識してないだろう。」
自分の鈍感さを懸命にフォロー(言い分け)する。

(でもね、でもね、お前といっしょになった選択(結婚)は大正解だったよ。)
と心の声、死ぬ前に一回くらいは声に出して言うつもりだよ。



原価率

厨房に隠ること半年。
ほぼ30年ぶりの厨房勤務。体力勝負の調理業務に身体が慣れるまで2ヶ月。身体にはけっこうハードだった様で、この二ヶ月で4kgは痩せた。それから冷蔵庫冷凍庫の中身や食材管理が身体に染みつくまでさらに1ヶ月。それでも身体で覚えていた技術は、 年齢的に動かなくなった身体のことを考慮しても たぶん80%は戻ってきたと思う。30年という歳月が経ったにもかかわらず、調理の応用が利く様になった。私生活で問題のあった前勤務先の調理長だったが、調理技術はずばぬけていた。あらためてこの方に教わったことを感謝。

歓には歴代調理長は全部で四人いた。一人を除いてそれぞれ素晴らしい技術を要していた。その調理長たちは私のいろいろな要求によく応えてくれて調理長の業務をこなしてくれた。
が、ひとつだけ、原価率が高かった。ヒドい時には40%近くの原価率になっていた。それぞれコストを抑えるための努力をしていたのだろうが、お客様の満足度との兼ね合い、難しかったのだろう。
私が厨房に入り、身体が慣れ始めるに伴い原価率を改善したいと考えた。

平日毎日北新宿のビル内にあるコンビニに弁当を納品している。その帰り道業務専門の食材店があり、ほぼ毎日その店舗に寄っていく。
野菜や食肉を見ながら、当日宴会の料理を考案する。食材を見て料理が思いつく。買って帰ると同食材の、仕入れ業者の納品する同製品と価格比較を自然とするようになった。
業者に対して、「これは高い。もっと安くならないか。」
という交渉も普通に話せる様になった。
築地や市場とは言わないが、市場価格に敏感になった。それと市場に出回る季節食材にも目が行く様になった。
頭の中で分かっていることと、実際に肌感覚で分かることには、けっこうな解離がある。
毎日行く買い出しでおこったメリットだ。

35%ほどあった原価率は、今は30%ほどになった。だが、ここからの1%はかなり厳しい。いろいろと工夫をするが、ややもすると31~33%に逆戻りする。

買い出しで入手できない食材にフカヒレがある。
姿煮で提供する形あるものだ。
値上がった。7月からだという。素ムキと呼ばれる乾燥品を何度も煮込みある程度柔らかくなった冷凍ものだ。
大きさによって価格は変わる。大きいほど値は高い。
お客様の要望に応え5000円コースにフカヒレの姿煮を、歓は入れている。
7月から値上がるフカヒレ1枚の原価は1200円。
5000円コースの一人前の原価が30%だとして1500円。そのなかから1500円を引くと残り300円。うーん!コースを組める金額ではない。

はてさてどうしよう。
コース料理の値段を上げるか、姿煮は出さずにコースを組むか。
お客様の悲哀こもごもの顔が目に浮かぶ・・・・。







師匠2

告別式。
お店を休んで行った。
告別式が終わり斎場へ。
バスに乗って霊柩車の後を追う。
白い骨になった。
納骨しふたたび告別式会場に戻る。
食事が用意してあり、葬式の最終場面に。
時間がたんたんと過ぎていく。
不思議と寂しさはない。
人の終わりの景色が目の前で過ぎていく。
そういう感じなのだ。
最も近い遺族、息子や娘も、もう涙はない。
ただ力をなくして呆然と佇んでいる。

私にとっても大切な、私に大きな愛情を注いでくれた方だったのだが、父の時と同じで一週間ほどして、締め付けられるような感情に襲われるのだろう。
男と女の、こういう時の感情の訪れは時間が少しズレている様な気がする。
泣き叫ぶ様な高ぶる感情は、少なくとも私はない。ただ一週間ほど時間をおいてから大きな空虚感を覚え、孤独感にたまらなくなる。うつろになる。

5年先か10年先かわからないが、今度は私の番だなと、一人で逝くことの覚悟をこうやって覚えていく。
気持ちが暗くなっているのでも、悲観しているのでもない。
ただただ自分の周りで流れる時間をたんたんと感じる。

文字通り終りを活きているんだろう。



師匠

大切な人がまた一人逝った。
前職、新宿三丁目でお世話になった私の上司(常務)だった人だ。
厨房からホールへ、私の大きな転機を助けてくれて人だった。
私が動けるまで、私が自ら動けるまで、私がすることを黙って見つめていてくれた。要所要所で身を乗り出す様に、私がやったことに対して、原因、結果を自らの分析を通じて説いてくれてた。スーッと心に落ちる言葉を織り込めて。

・日蓮宗を熱烈に信仰し、その仏門の教えを通じてわかりやすく説明してくれたが、一度も私を日蓮宗に誘うことはなかった。

・山が好きだった。山岳写真が好きだった。幾度か私を山に誘っていっしょに登った。
最初の山は尾瀬だった。当日朝、迎えに行った私のリュックをひっくり返し、着替えを中心とした軽い荷をおろし、代わりに自分のカメラ機材を私のリュックに詰め込んだ。メチャクチャ重くなったリュックを背負い尾瀬の山道を歩いた。
歩きながら足がつりそうになること幾たび。一度でもリュックを下ろすと立ち上がれないと、背負ったまま岩の上に腰を下ろす時々の休憩だった。
カメラ機材がリュックに入っているのは知っていたが、常務がその機材を使う気配はいっこうにない。
「常務、私の背中のカメラはいつ使うんですか?」
返事は
「それは雨の時に備えて持ってきたカメラだ。」
「えっ?雨が降らなかったら?使わないんですか?」
「うん・・・・。」
答えはなかった。
そんな・・・・

後日、「いつ弱音を吐くか見ていた。」と常務は話す。
何のために?
ただあの山へのきつかった思い出は強烈であり、三泊四日の尾瀬縦走だったが、山が好きになった。あのきつい思いが、その後一人で山へ行く自信に繋がった。以降何度も一人で山へ行くことになる。山岳写真ではなかったが、カメラも好きになった。

・お店には天才的な調理長がいた。店の大きな原動力だったが、考え方は職人であって経営者ではなかった。その調理長の下で働く私をホール支配人としてコンバートしてくれたのが常務だった。
接客経験ゼロの私をお客様一人一人に紹介し、機会あるごとに町会、商店会、法人会などへ随行させ、場数を踏ませた。そしていったん私を紹介すると常務は一歩控えた場所に立ち、私が後継者だと周囲に認知させていった。
私が表に立つことで恥かくこともあっただろうに、ジーッと辛抱し私の成長を待ってくれた。

かくしてこの方から私は、山、カメラ、経営などいろいろと教わった。
私の上司であり、先生であり、親父だった。
この人に巡り会ったことに感謝。

6月6日。死に目に会うこともなくこの方が旅立った。
奇しくも私の父親と同じ命日の6月6日だった。

この方の家庭環境はけっして恵まれていたとは言えなかったが、実の息子以上に私を育っててくれた。
ありがとうございます。
ご冥福を・・・。
大きな空虚がしばらくは私に残る。