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撮影現場

コロナ禍が明けた頃合いだったと思う。
歓ファンを現場にした映画撮影があった。中国人俳優が中心で撮影しているのだが、スタッフはほとんどが日本人。あ、時々話し込んでいた監督も日本人だったなぁ。と記憶が曖昧なくらい以前の撮影だった。

https://tver.jp/episodes/epzl7k3l5z

上記のサイトで見ることができる。
歓が撮影場所だが、私も出ないし知っている人も出ない。本当に場所だけ提供だ。
スタッフの一人からメールが来て映画が出来上がって配信が始まっていると言う連絡だった。タイトルは「私たちの東京ストーリー」
見た。歓が映っている場面だけを見た。
なんか妙に気恥ずかしい・・・・




年男

巳年の私は今年は年男。
めでたいのかめでたくないのか、よくわかりませんが。
10月で12の倍数、72歳になります。
何らかのおりに書き留めておいた「いずれできなくなる貴重なこと」のなかに
<親孝行できるのは70歳まで>
<健康寿命は男72歳、女75歳>
と、70歳に関した言葉が二つあった。
去年までは、カーネルサンダースがKFCを作ったのが71歳というのがあって、それが励みになっていたが、年齢とともにその言葉も過ぎ去っていった。
そして健康寿命と言われる72歳を迎えた。
可能性だけがどんどん限られていく。

4歳下の弟がどうにも厳しいらしい。ガンだ。直腸ガンだ。
ガンに苛まされて、まだ2年ほどだと思う。もっと短かったかも知れない。
自分の弟だから褒めるのではないが、正義感が強く、情が強く、精悍な男だ。
弟にはいろいろと諭されたことも多々あった。
楽観的に考えたいのだが、息子の話を聞くとどうも厳しい予測らしい。予測が外れると良いのだが。
当の本人はサバサバとしている。生きていることの未練を弟なりに一つ一つ剥がしているようにも感じた。文筆業を生業としている。仕事は今も淡々とこなしている。ただ疲れやすいとも言っていた。疲れやすいのは私も一緒だが、たぶん私とはレベルが違うのだろうと思う。

妻から
「もういい加減自分の身の回りを整理して行きなさいよ。」
「迷惑をかけるような死に方は止めてよ。」
その都度、
「何とかなるさ。時間が解決するよ。」

赤子に返ると言われる還暦からさらに12年一回り。
限られた時間の使い方が、これからの、今年一年の、課題・・・。
そう言って12年一回りが過ぎた。

今年もよろしくお願いします。
老体なりに、もうちょっと頑張ってみます。




2024年

お節作りが終わった。
昨夜から煮物、焼き物など手のかかるものをやった。厨房が私一人作業だったために今年のお節は一般営業はしなかった。作業時間が読めないため。だから受注数は少ない。早朝から食材の切り込みを始め、11時頃からスタッフが出勤。合わせるように詰め込み作業が始まる。詰め込み作業は小一時間。
簡単な大掃除を終え、スタッフでテーブルを囲み、これまた簡単な打ち上げ。

終わった。今年が終わった。

一人でいろいろとこなす作業はけっこう厳しい。若かりしころは何でもできた。自信もあった。
いまは時間的にも実質的な作業にも、自分の体力を計算に入れないと事を進められない。「老いる」ということはこういうことかとあらためて思い知る。
ま、でも、一年を終えることができた。
由しとすべし。

一人でできる限界を慮り、ひとつひとつの事に向かい、後退できない状況に、どういう進め方、進み方をしなければならないのか。
来年はもっともっと思い知ることになるのだろうと、密かに覚悟を決めん。

数日前に散歩をしながら
「そろそろ終わりを考えてよ。」
「もうゆっくりしてもいいんじゃない。」
「残された人たちに迷惑をかけないようにね。」
と妻から諭される。
返事はしなかったが、

うん、わかってる。
でも終わりって、何だろうね。
いつなんだろうね。
どういう形が一番ベストなんだろうね。
反面、
いや、まだ終わりじゃない。
もうちょっと抗う事と抗うための時間は残ってるよね。

自問自答を繰り返す自分がいた。
新年度も”煩悩”と一問一答しながら、もうちょっと・・・。
何が”もうちょっと”かわからないままに、

この一年間ありがとうございました。
新しい年も、もう少しだけおつきあいくださいませ。

床屋

久しぶりに床屋に行った。
2ヶ月ぶりだろうか。行こう行こうと思っていたのだが、忘年会シーズンの繁忙期もあって行けずにいた。今日は日曜日で本来定休日なのだが、夕方から予約がある。10過ぎに床屋に向かった。

以前通っていた床屋は最近混み合っている日が多く、4~5名並んでいる。1時間待ちで並びたくなかった。そういう事情で、床屋を変えた。
医大通り沿いの、市ヶ谷方面靖国通りに出る手前にある、老夫婦で営んでいる床屋にした。店内には山の写真が数多く飾ってあり、山好きな主人の趣味が前面に出ている床屋だ。私の山好きも手伝い話しははずむ。私よりも格段に多くの山に行かれている。

この日は先客がいた。ご主人が先客の整髪をしていた。
奥様に席に案内された。手にはバリカン。
(お、今日は奥様が散髪されるのか。)
奥様の整髪は初めてだった。

床屋のイスは座り心地が良い。どこの床屋に行っても、私はまず寝る。寝る癖がついているように座った途端に眠気が襲ってくる。
この日も床屋に取り付けてあるイスに座り、目をつむった途端睡魔が寄ってくる。頭にはバリカンが・・・・
ん?ん?
バリカンが頭に突っかかってる。頭皮に接触しているバリカンが、ウィーン、ウィ、ウィ、とスムーズに動いてない。
薄目を開けて、鏡を除く。鏡の中で奥様が私の頭にバリカンを当て動かしている。そのバリカンを持つ手が震えている。

私の左手も少し震える。震えを制御できないのだ。この状態で10年は経つだろうか。軽い神経麻痺だ。右手はなんともないのだが、左手だけが小さく震える。緊張すると震えは大きくなる。
おそらく、この理髪店の奥様は私と同様の病気だろうと思われる。
ひげ剃りだったら問題だが、頭皮にあてたバリカン程度じゃどうってことない。

開いた薄めを閉じて、また、しばしの眠りに戻った。



闇バイト

ここのところ頻繁に警察が訪れてくる。
赤坂警察、八王子警察、地元新宿警察といとまがない。
要件は決まって防犯カメラだ。
三年前に商店会の街路灯に防犯カメラを5台取り付けた。
昨年、商店会事業として新規街路灯を17本立てた。約900万円かかった。
今年、その街路灯に隣接する町会と共同で防犯カメラ10個ほど取り付けた。
新設は今月のことだ。
都や区が防犯に関して助成金をバンバン出してくれる。90%助成だ。
商店会の負担は1割ほどで済む。
こんなことでお役に立てればと、こちらも設置には積極的に取りかかる。

助成金は初期投資には大きく出してくれるが、月々かかるランニングコストには出てこない。クラウド(ネット)上で管理するには年間20~30万円ほどかかる。
これは負担が大きい。なので画像を取り出すときには防犯カメラの下でWi-Fiを通してデータを拾う。これなら年間電気料金が数千円ですむ。
という方式でカメラを設置した。

画像を警察が見に来るのだ。それもこの1週間の間に4回ほど。前述したように一つの警察署だけではない。警察署同士がかち合うときもある。今日がそうだ。
昨年取り付けた防犯カメラと、今年取り付けた防犯カメラにはそれぞれパソコンがついており、そのパソコンを持ってカメラ下に行き画像を拾う。

パソコンは商店会長である私の所に二台とも有る。
面倒なため、最近はパソコンごと警察に渡すことにしている。
それにしても警察の来訪は頻繁過ぎる。で、聞いた。
「何の画像を引き出すんですか?事故ですか?事件ですか?」と聞く。
「ニュースで話題になっている闇バイトです。そのボスがこの近くにいます。」
とのこと。
いろんな人種が混在している新宿だから、近隣には数種のヤクザ組事務所も点在している。ヤクザが入居しているビルはだいたい把握しているのだが、それとは別らしい。

驚きはしないが、さすが新宿!と妙に納得する。






歓ファンの20周年記念

今から20年前2004年12月3日に、この新宿六丁目で歓は誕生した。
私が51歳の時だった。飲食店開業としては遅い遅いスタートだった。
それでもまだまだ溢れるくらいのエネルギーがあった。

前勤務先はすぐ近くの新宿三丁目にあった。伊勢丹や丸井、三越、ヨドバシカメラなど蒼々たる企業が軒を連ね、日本最大の乗降客を誇る新宿駅も三丁目に含まれる。
そんな三丁目にほぼ接していた新宿六丁目だったが、「明治通り」「靖国通り」という大きな通りが間を遮っており、三丁目や歌舞伎町などの繁華街とはうってかわって閑静な住宅街という様相も帯びていた。

歓ファンのある桂ビルは木造二階建ての建物であり、歓ができるまでは普通の事務所が入居していた。
30坪。ほぼ一ヶ月を要して飲食店に改装。総席数35席の中華料理が出来上がった。メンバーは、私、妻、二戸調理長の三人が核になり5名ほどで稼働させた。
大々的な広告は打たなかった。顧客は持っているつもりだった。まして前勤務先の協力もあり、遠慮なくお客様を集められた。少なくともこの顧客が二年ほどは代わる代わる来店、あるいは新規顧客を紹介して貰えると信じていた。そのくらいの繋がりはもっていた。
自分の勢いを信じた。自分の運を信じた。

20年を経て、当時の勢いはなくなったが、この地域での知名度、密着度は上がったと思う。12年目には、六丁目町会、最大のイベントお祭りの祭典委員長を仰せつかった。医大通り商店会長も務めて8年経った。それなりの貢献はしてきたし、地域に認められてきたと思う。
東日本大震災の最中に二店舗目を開店させた。残念ながら三店舗目をオープンさせられずに縮小を余儀なくされたが、コロナ禍など思いもかけない災害もなんとか乗り切った。
20年の間には持病の糖尿病による狭心症や前立腺ガンなどを煩い身体にメスを三回入れた。その都度体力は落ちていく。気がつけば、古稀を迎えていた。顧客もそれぞれが高齢になり、来店頻度もかなり少なくなった。
歓で勤め上げた人もけっこうな数になる。名前を思い出せない人もいる。
その全てが20年という歳月に凝縮されて過ぎてきた。

12月7日土曜日 18時30分より、ささやかな周年行事をお客様と催す。
席が埋まりきれないけど。ま、こんなもんか。

身体の節々がギシギシ鳴るときもあるが、頑張った証だと思いたい。
時々身体のメンテナンスをしながら、
もうちょっとだけ・・
もうちょっとだけ・・

鮨屋が消えた、蕎麦屋が消えた

ここ十年くらいで近所の鮨屋が少なくなった。大国寿司、加賀寿司、吉野寿司、松喜寿司・・・。蕎麦屋も少なくなった。なくなってきたのはすべて個人営業のお店だ。

新宿界隈で居酒屋を最大12店舗経営していた方と昨日会った。82歳と高齢だ。
その方が85歳までに全部のお店を閉鎖します、と言う。
この方の年齢が問題ではないそうだ。職人がいなくなるという。現に調理人がいなくなって閉めたお店が多々あり、残存は5店舗という。
週休二日や8時間労働を優先したゆえに離職、社食だとかチェーン展開する飲食大手に転職していった。結果的に店舗閉鎖に追い込まれたと話す。今や店舗厨房の主力は外国人に移りつつあるとも。
「新宿で飲食店を継続するにはチェーン展開しないと無理ですよ。」

身につまされる話しだ。けっして他人事ではない。全般的に見て飲食店を巡る環境はけっして楽観できる状況にはない。
店舗を出すとしても個店では信用力に劣るため、店舗を借りるという一点でもかなりの無理を強いられる。東京の家主は簡単には貸してくれないからだ。少なくとも保証金(敷金礼金にあたる)が6ヶ月~1年分くらいは必要になる。
飲食業において、研鑽すればいつかは自分のお店を出せるという夢は、少なくとも東京という土地ではかなり厳しくなる。

理由はそれぞれにあって、原因が職人不足とは限らないだろうが、個人店舗を出店するにも継続するにも、これから先、難しい局面がきっと多くなることだろう。
いっぽう朝から夜まで頑張って仕事を覚えて・・・は、私はそれなりに楽しかった。”ガンバル”を支える体力もあったし、そういう力の出し惜しみは考えることがなかった。8時間労働とか週休二日とかいう待遇面は考えなくとも、仕事を覚える楽しみは何事にも代えがたかった。覚えるごとに、洗い場→板方→揚げ方→前菜方→副調理長→調理長(新店舗)という出世階段が待っていた。
待遇面や給与面(打算)を先に考えると、覚える階段数は少なくなった。
今となっては古い考え方なのだろうが、あの当時はそうやって職人が育っていった。

一般的な飲食業は、ランチ営業、ディナー営業と主力か同時間帯が二つあり、その一方だけでは、労使双方とも採算は合わない。片方だけでは、使われる方は給与が少なく、片方ずつを二人雇うとすれば使う方も人件費がかさむ。

いずれ、高齢化がもっともっと進むだろう。若者は拘束時間の長い飲食業は避けるようになり、少なくともバイトとしての選択肢にあっても、社員としての選択肢は狭まる。
高齢化というのは、年齢の高齢化という意味以外でも、労力の少ない(効率の良い)仕事が選ばれていくという意味合いもある。
かくして日本は高齢化、別な言葉で『衰退』していく。

職人がいなくなるというのは、こういう側面も併せ持つ。
日本の政治家が、特に現在の自民党が誘導した日本だ。
平和な良い国なのだが、牙を取られた草食動物はいずれ肉食動物の衛士になるしかないのだろう。




忘れ物

一人のお客様が来た。来るなり
「忘れ物した。タクシーに。」
何を忘れたの?
「かばん。」
中は?
「財布と携帯と・・・」
タクシーは何という会社
「いや・・?小さな車だったけど・・」
会社名はわからないの?
領収書は?
「ない。」
近代化センターに連絡してみるね。
あ、5時過ぎはダメだ。それにネット上では、まずタクシー会社へ電話するように誘導されている。それ以降は警察にと。
・・・・・
・・・・・
とりあえず交番に行ってみる。お客様は一人で交番へテクテクと向かった。
懇意のお客様だったので、店のおばさんがお客様の携帯に何度か電話。
タクシーの運転手が気がついたようで、戻ってきて近所のコンビニでお客様の携帯に反応した。
携帯を持ってエプロン姿のおばさんに気がつき、そこで合体。鞄が渡る。
お店に鞄を持って帰り、私に鞄を預け
「社長、交番に行ってきます。鞄を見ててください。」
・・・・
・・・・
おばさんと、ホッとした顔で戻ってきたお客様。
善意と善意が交錯する日本。
平和だね。

私の心の中でボソボソと独り言
(でもさ、例えタクシーでもさ、例えお客様だったとしてもさ、漫然と乗るなよ。ちょっとでも話ししなよ。面白い話し聞けるかも知れないし、営業用の車には必ず運転手の名前提示してあるんだから、その名前で、
「○○さん、最近忙しい?」
って声かけりゃ、ビックリするし、ビックリした顔だって面白いし、楽しくなるし、お互い興味が湧けば、ふつう聞けない話だって、話してくれるし、乗ってる時間も短くなるよ。漫然は良くないよ。あなたも若くないんだから、残されてる時間は長くないよ、もっと大切に使おうよ・・・・。)
きっとタクシー会社だって記憶に残るから。
それと、後で捨てたって良いから、領収書やレシートは貰う癖も作ろうよ。


新調理人のその後

ブログを見返していたら「新調理人」というタイトルがちょっと前に上げてあった。だからというわけではないが、その後をアップしよう。
結果を話せば、辞めた。ほぼ二ヶ月間だった。辞めて、もう十日ほど経つ。

十月末に商店会の一大イベント「医大通り音楽フェスティバル」があった。
彼、新調理人が来てくれて、商店会長として動けた。それまで申し訳ないくらい滞っていた活動をいっきに進めることができた。
この点は感謝。というか、このために彼は来てくれたのかと思う。

彼は現在進行形で、有名な調理学校の講師も務めていた。そのためもあって料理のバリエーションは豊富だった。エネルギッシュでもあった。やる気を前面に出していた。
ただその「やる気」が過ぎた。当初からその点は心配だった。だから
「急ぐなよ。あせるなよ。でないと、気がつけば、後ろを振り向けば、誰もついてきてない、という事になるよ。」
まさにその通りになってしまった。
やる気と元気が空回りしてしまったのだ。

周りが、他の従業員が、彼を遠巻きにし始めていた。
私の片腕でもあったホールの女性は、
「私はあの人をお客様に紹介できない。」
「あの人が出るミーティングは、私は欠席します。」
と言い切る。
数少ない従業員のなかで彼は孤立していった。
「オレ、接客も得意ですよ。」
とも言っていた彼だったが、厨房からホールに呼ばれる回数は激減する。

良いところはたくさん持っていた。
彼は喫煙者だったが、厨房での喫煙は絶対しなかった。
砂糖や醤油などの調味料は毎日入れ替えていた。
あとは・・・
あとは・・・
良いところは多々あったのだが、それを全て打ち消すくらい”圧”が強かった。
自分が全てだったのだ。彼にとって周りが馬鹿に見えていたのだと思う。

師走忘年会シーズンを前にして、この体制で乗り切ろうと考えていた。
だから片腕と思っている女性には、その旨を話し”ガマン”をお願いした。
なのに、ガマンをお願いした私が彼女に
「けどね、もし、彼の方から”辞めたい”と言われたときには、止めないよ。」
と支離滅裂なことを伝える。
「そんなことになったら、また厨房の仕事が増えて社長の負担が大きくなりますよ。」
「大丈夫だ。彼が来る前に戻るだけのことだから。心配するな。覚悟は決めている。」
それでも、これから訪れる忘年会の繁忙を乗り切るために力を合わせようと、みんなが気持ちを切り替えていた。

「おれ、辞めてもいいですか?」
「いつ、辞めればいいですか?」
7日の木曜日に調理人から言われた。
(はぁ?)
自分の気持ちは殺した。
顔に出る感情も殺した。そして
「今週いっぱい、土曜日まででいい。」
彼もこんな早い日時は想定してなかったようだった。

お店が終わり、彼が帰った後、残った彼女に話した。
「ごめんね。あなたに負担がかかるけど、いっしょに頑張ろうか。」

彼が残していったもの。
使い切れない在庫。
使い方のわからない調味料。
でも、ストレスから解放される利点のほうが大きかった。

かって私も職人だったけど、どうしても小さなお山の大将になりがちで、大きな山が見えにくい。俯瞰した見方ができない。職人は一つのことには大きな力を発揮するけど、全体が見えにくいから、自分中心な発言が強くなりがち。例外はあるとしても、だいたいにおいて職人はチームリーダーに不向きが多い。
飲食店は、ある程度大きくなると職人を抱えざる得なくなる。飲食店の経営者は職人の使い道を覚える必要がある。だけど天の邪鬼を通り越して、ひねくれた存在になると手をつけられなくなる。
立場をわきまえた、あるいは自分の力量をわきまえた職人だったらまだ使いようがあるのだが、お山の大将になった職人は始末が悪い。そして自分しか作れないと言う技術を盾にとって、会社を脅したりもする。おそらくその自覚もないのだろうが。

せっかくあれだけの料理を作れるのに。もったいないと切実に思う。
でも一人仕事なのだ。一人仕事を自ら作っているのだ。
でも彼は、
(オレのことを見てくれない、理解してくれない、興味を持ってくれない。)
と受け止めているんだろうな、きっと。




救急車

本日の予約は3名と4名の二組。両方17時からの早めのお客様だった。
コース料理を頼まれていた。
近所の、80歳に手が届くかどうかくらいの建築会社の会長さんと、同年齢のお友達たち4名のご予約。
すでに2名様が先に到着していて会の始まりを待つばかり。私も料理の準備が整うかという時間、、、、とその時。
「社長!来て来て!」
ホール担当の女性の叫び声で呼ばれる。声はお店の外から。

お店の外に出ると、人が集まってきている。
予約のお客様の一人を囲むように人が集まっている。
「どうしたんですか?」
「倒れたんですよ、ここで。」
「ほら、頭から血が出てるでしょう。」
「今、警察呼びましたから。」
えっ、警察?
「あ、間違えた。119番だった!私もあわててる。」
聞くと、東京医大の学生だった。
お店に着いた頃から少しヨタヨタとしてたらしいのだが、歓ファンのドアを開けようと手を伸ばしたらしいのだが、取っ手に手が届かず、そのまま後ろ向きに倒れたらしい。
とっくに高齢者の仲間になっている私にもいつ訪れてもおかしくない。歩いている最中でも段差のない道で躓くこともチョコチョコ。まして歓の顧客でもある。他人事ではないのだ。

そしてこの日の一組の予約はなくなった・・・。これも痛かった。
きっとまたいらっしゃってくださるのだろうけど・・・・・。