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コロナ後のランチ

26、25、21、26、26、29・・・
ランチ客数は30名様未満前後で推移している。
毎年5月連休明けは昼夜ともに厳しい。コロナ前の過去を加味すれば、まだマスク姿が多い状態では、この数値はありかとも思う。
調理長がいなくなり、厨房に立っている私のことを助けて貰っているのかな、とも感じる。

コロナ前の平日ランチ数は60名様前後で推移していた。
だからランチ数の戻りはまだ半分弱だ。
厨房二人、ホール一人という状況で動いている。
客数を考えるとスタッフ数の三人は多いくらいなのだが、お店の作り(動線)は四人以上を想定して作っている。30名前後でもランチはバタバタだ。
メニューをもっと絞ったりしなきゃいけないんだろうな、と思う。

店の売上や採算の事を考えると、あれもこれもとやるべき事が頭に浮かんでくる。ひょいと昨年の売上を見た。なんと100万円/月 いってない。
あらためて相当ヒドかったんだと思う。その昨年に比べるとかなり売上は持ち直している。もうちょっとなんだろうな、と思う。

ただ金銭的な面と体力的な部分で、間に合うかな・・・。
悩みは尽きない。


調理長がいなくなり固定費は大きく下がった。同時に採算分岐点も下がった。
身体はあちこちきしむが、ま、これもありかと思う。
ランチ数が減っても
逆に持ち堪える体力がまだ残っていることに感謝すべきか。






40歳になる息子へ

息子へ。
あらためて誕生日おめでとう。
私の40歳の時を思い出しながら少し話したい。

私は40歳の時に、それまで調理師だったのがホール支配人としての職務に変わった。
大きな転機だったと今でも思う。
調理師(職人)だったころは、親方の言われるがままに勤務先を転々とする立場だった。おまえたちに家を構え、定住させ切れなかった大きな要因でもあった。振り返るとこの点に関してはお母さんやお前たちに(すまないな)と思う。
その点、お前たち兄弟は早々と家を構え慶賀の至り。親としてもホッとしている。

40歳についてや、40歳からの生き方について少し話したいと思う。
古来から15歳のことを「志学」、30歳のことを「而立(じりつ)」、40歳のことを「不惑(ふわく)」と言われてきている。

40歳の「不惑」は、文字通り「生き方に疑問を感じるな、迷うな」という意味が含まれている。
家庭では、お前の子供たちを上級の学校に行かせるようになる。なのに子供たちは家庭よりも外界に重心を置き始め、親の意のままにならなくなるのもこの頃(反抗期)。
そして仕事は少なからず責任を持たせられる立場になる。

1、家庭での心構え。
おそらく人生の中で、お前も奥さんも一番忙しい時期を迎える。忙とは「忄」(こころ)を「亡」(なくす)と書く。家事や掃除など日常の忙しさに加えて、自分たちの将来や子供たちの将来に不安や心配を抱きはじめる。

家庭の中心はお前と奥さんだ。無理してでも時間を作って二人だけの時間を持つべし。お母さんに言えば子供の相手くらいはしてくれる。

2、職場での心構え
一般的に職場での立場もより上の立場に変わってくると思う。
それまでが救命や看護の技術を向上させれば済んでいたのが、課長や部長など「長」の字がつくと、たんなる技術を磨くだけではすまなくなる。仕事の内容は一人が対象である「技術取得や向上」から、複数の人を「管理」するに変わってくる。
自分のペースで仕事が出来なくなり、ストレスが増える。が、今まで一人では出来なかった仕事が、複数人が関わることで大きな仕事が舞い込む様になる。達成感も大きい。
ここは踏ん張り処、是非頑張って欲しい。

仕事の内容が「管理」に変わると言ったが、人を管理することを意味する。自分の奥さんや子供たちだって難しいのに、他人を管理する様になるのはもっと難しい。

ここは「管理」でなく「して貰う」「お願いする」というスタンスが望ましい。でも「してもらう」「お願いする」が心から出てこないと、けっこう他人は敏感に反応する。
心から「して貰う、」「お願いする」には、相手をリスペクト(敬意を払う)する様にすればやりやすいと思う。
どんな人間にも必ず一つは長所がある。それを見つけて、その長所が生きる協力を得ることができればベスト。

昔宮本武蔵に弟子入りした宮本伊織に毎日木刀を持って素振りをさせたそうな。これは毎日木刀を振ることによって腕の筋力を上げ、木刀があたかも身体の一部になることを目指させたためだ。その後で剣術を教えたと聞く。
管理する立場になるということは部下を手足の様に使えることを意味する。
ものの考え方も生き方も違う相手を自分の手足の様に使うためには相当の我慢も必要になる。

話しは長くなったが、40歳代という歳は、ひとつの意味で使われる立場か使う立場かへの岐路になる。
使う立場になれば、当然収入も増え、お前のネットワークも広がる。メリットは大きい。家庭でも職場でもメチャクチャ忙しくなる年齢だ。

そして気がつくと50歳代に突入する。
50歳代は、お前の周りの友達がそれぞれの立場でトップにつくようになり、それぞれの立場で力を貸してくれる。大きく飛躍出来る時であり、大きなことが出来る。
逆な見方をすると、人生のピークを50歳代に持って行き、大きく飛躍するための40歳代と割り切ってもOKかと、私の人生を振り返ると、そんな風に感じる。

私とお前では立場も夢も違うが、お前の50歳代ピーク時の目標を設定しても損はないかと思う。

今年70歳を迎える身として、物理(金銭)的なものは何も残せなかったが、自分の人生を後悔の無い人生だったと思う。

いつの日か終わりを迎えるにあたって、
「あの時にやっておけば良かった。」
と思う後悔よりも、
「何も残らなかったけど、よく頑張った。」
と思える後悔(?)を選んで欲しい。

歯磨き粉

風呂に入る。
お風呂の熱でのぼせやすく、あまりお風呂は好きじゃなかった。
それが加齢とともに浴槽内の滞在時間は長くなってきた。
加齢と言うより高齢が風呂好きにさせた。

マンションの6階にある我が家は狭い。
当然風呂場も狭い。
広さと時間を有効に使うために、お風呂に入るルーティンがある。
浴槽に浸り身体が温める。
後々のひげ剃りを考えて、浴槽には鼻の下まで浸る。
浴槽から上がると、まず頭を洗う。
シャンプーの残った泡を脇の下と股間に持って行き、それでもって洗う。
シャワーで頭を流すと身体をあらためて洗う。
最後にひげそりと歯磨きをして浴室を退場となる。

ルーティンとなった作業が終わり、最後の歯磨きをするばかりとなった。
が、いつもあるところにいつものチューブの歯磨き粉がない。
(なんだよ、ちゃんと定位置においとけよ!)
「おーい、歯磨き粉がないぞぉ!」
と怒鳴るも、奥の部屋でテレビ鑑賞の奥方には声が届かない。
(まったく、なんだかなぁ・・・)

狭い我が家、浴室の隣はキッチンだ。キッチンにも歯ブラシと歯磨き粉は置いてある。1歩、2歩とキッチンに踏み出さなければならないが、割と近くに常備してある。
フローリングの床を塗らさない様に慎重に手を伸ばして歯磨き粉を取る。

さあ、歯磨きだ。
と、キッチンから取ってきた歯磨きを右手に持ち、左手でフタを開けようとした。
あれ?
左手にも歯磨き粉が・・・・。
えっ?
おれ、歯磨き粉を持ったまま歯磨きを探してたの!

頭はまだまだ老化はしてないぞと、自分ではぼんやりとした自信を持っていたが、その自信が、音を立てて崩れていく・・・・・・。










父を想う、老いた我を想う

病院のベッドに横たわり、布団の裾から見える壊死寸前の足先を見て
亡き父は
「オレはこのまま亡くなっていくんだ・・。」
泣きながら叫んだそうだ。おそらく足先の感覚は無かったのだろうと思う。

父の本職は真言宗の坊主だった。
幼き頃は仏壇の前に正座させられて、何度も何度も固い六角形の樫の棒でたたかれた。
母曰く、
「あんなに修行を積んで、悟った人だったのに、やっぱり死ぬ時はあがくのかしら・・」

私の昔の上司が施設に入った。84歳。
足腰は衰え、歩くこともままならず、肺に水がたまる病気をかかえ、時として呼吸困難も起こす。その都度、私と同期で上司の部下だった西井(現在の歓のホール担当)に電話が行く。彼女が駆けつけ、病院に送っていく、という事が数回。
救急以外を含めると、昼夜を問わず電話、メールが行く。
たいへんだろうと思う。きっと彼女にはワガママが言いやすいのだろう。

施設に入居して翌日の今日、上司からお店、私の携帯と電話、メールが届く。
が、電話に出るとガッチャと切れる。メールはおよそ文面とは思えない、メチャクチャな文字の羅列が続く。解読不能。

自宅の鍵を取り上げられ、携帯も夜9時になると施設預かりになり、現金やカード類は成年後見人が預かり、自由という自由がほぼなくなった。
きっと寂しいのだろうと思う。施設の方は
「慣れさせてください。みなさん、入居当時は帰りたい、帰りたいとおっしゃいます。」
そうなのだろう。
奥さんは同じ施設で世話になっている。病気で寝たきりになり、胃瘻までしている。最近は認知症が進み、言わば生ける屍となる。

聡明な方だった。豪放であり、でも人情の分かる人だった。
私を「胡座楼」という前勤務先の後継にさせようと、常に一歩下がった位置で私を見守ってくれた。
経営全般、カメラ、登山、、これらを私に教えてくれたのはこの上司だった。
ホントに感謝しかない。

それが悲しくなるような境地に追い込まれている。
手助けしたくとも、施設に預かる身では、私にはもう何も出来ない。
そしていつかは、たぶん10年くらい後には、私も似た様な境遇になるのだろう。

日本の人口、12年連続減の1億2000万人。
人口減はともかく、長生きが増え老人の割合が多くなったと痛切に感じる。
東京でも感じる高齢化。地方に行けば高齢化はいかばかりか。
そしてそれは、けっして人ごとではない。

あと何年生きられるか知らないが
あと5年先、10年先、15年先・・・








妻の留守中

妻の出身は山形県川西町だ。
朝日連峰と飯豊連峰に挟まれた位置にある。
いつか引退したらこの町に行こうと考えていた。
毎日山登りができると心中小躍りしていた。
のどかな、しずかなたたずまいを見せる町だ。

彼女の両親は同年齢で、今年94歳。母親は施設のお世話になっているようだが、両親ともまだまだ健在だ。
彼女の兄が同居し、普段は父親との二人暮らし。

「(両親は)もう何があってもおかしくない年だし、会えるうちに会って来いよ。」
コロナ禍がようやく収まってきた今年、帰る頃合いになってきたと思い、妻にそう伝えた。
4月3日の自分の誕生日をしっかり終えてから1週間ほどの予定で帰郷した。
帰る寸前まで、残された私のことを心配し
「洗濯物大丈夫?、火の元はちゃんと確認してね、お店の経理のことは帰ってからやるからそのままにして。」
「わかった、わかった。余計な心配しなくていいから早く帰れ。」
帰る日の朝までクドクド。そして
「私がいなくなると寂しい?」

山形に帰った次の日の夜、メールが届く。
「寂しくなかった?」
ここまで来ると、どうしても「寂しい」という私の言葉を聞きたいのだろう。
「枕くらい日干ししろ。湿ケっぽいぞ。」
「ちゃんと定期的に洗ってるし、そんなことないよ。」
「あれ?俺の涙かぁ?」
「やっぱし。」

「あ、(湿っぽいのは)俺のよだれだ。」
「きったない!、ちゃんと洗っといてよ。」
「汚いとは何だ!小便がたれるよりましだろ。」
私には前立腺癌の後遺症で尿障害が続いているのだ。

たわいのない夫婦がここにいる。
いつか94歳の両親のように、こんな会話が私たち夫婦の間でも続けることができればいいな。






ニュース?速報?

東京都で11日に確認された新型コロナウイルスの新たな感染者は805人でした。先週の土曜日から10人増えました。

3月11日のニュースだ。
まだ流す必要があるのか。
興味を持った人が、例えば厚労省や保健所のホームページで調べればすむことじゃないのか。
東京都の人口を知っているか?
1,200万人だ。
12,000,000人のうち、800人であり、10人の増加だ。12,000,000分の10人って、宝くじと同じくらいの確率?
800人から10人増えたのなら、それ以上の犠牲者が出ている交通事故の数、死者数なども、速報するくらいのニュースとして扱え、と心の中で思っている。

と、まあ、私の中ではコロナはその程度のものに変わってきている。
それよりも、コロナが少なくなった分、町にこれだけ活気が戻ってきました、もっと人との出会いを作りましょう、と伝えてほしい。
物価が急激に上がり、真っ先に旦那の小遣いが直撃を受け、安い牛丼屋や立ち食いそばの店は行列をなしているのだが、中途半端な大きさの私どもが出している店は、お客様が来ない。まだまだ少ないのだ。
コロナウイルスでなくてお客様”来るなウイルス”、そろそろ終わろうよ、飽きたよ。





厨房

厨房に入ると、外界と遮断されるせいか、時間が止まったように感じる。
お客様との会話も極端に少なくなるために入手する情報も少ない。
逆に調理に専念できるようにはなる。

私は食べることは大好きだったし大食漢だった。だが料理は決して好きだったわけではなかった。
歓は14年間勤め上げた初代調理長を含め計4名の調理長がいた。
それなりに特徴があり、作るものもその特徴が出ていた。調理長自身もそれぞれの料理に対してのこだわりが大なり小なり持っており、それで自己を表現していた。

厨房に入り2ヶ月が過ぎた。
慣れてきた。
慣れてくると同時に料理感が戻り、いろいろ作りたくなってくる。
まかない一つとっても、
(今日は何を作ろうかな?)
とちょっとだけ迷う。食べてくれる人(スタッフ)が身近なだけに、その人たちの好きなものを作ろうとするし、これもあれも作って食べてもらいたいと、作る意欲は大いに出てくる。食べるときの表情が目の前で展開されるから、作りがいがあるのだ。

それでも厨房から離れていた25年の歳月は長い。勘が戻るのに2ヶ月もかかっている。だが確実に25年以上前の記憶を身体が思い出してくれる。
ありがたい、と思う。
私に料理を教えてくれたOさん一昨年他界した。
でもこの人から教わった調理技術が私の身体の中でまだ生きていた。
基本だったのだ。だから思い出すことができたのだろうと。
調理の師匠は50歳ころからお金で人生を狂わせた。
悲惨な末路になった。
が、料理に関しては天才だったし、この人の調理に妥協はなかった。この方のその最高の時に出会った。基本を教えてもらった。
それが今、私を救っている。
感謝しかない。

パソコンを打ちながら、打つ両手のひら、二の腕のあちこちに火傷傷のあとが見える。やけど跡は調理という職業病の一つなのだろうが、
(俺って、仕事は下手だなぁ。)

数十年ぶりだし、高齢だし、と言い訳はたくさん言えるが、単純に作業が下手なんだと思う。
厨房に入り、調理に専念できると、それはそれで楽しい。
専念できるとね。










厨房勤務

昨年12月21日より私が厨房に立っている。
あっという間にもうすぐ2ヶ月だ。
一ヶ月目で、ようやく冷蔵庫、冷凍庫の配置が把握できるようになった。.
だが、すぐ忘れる。配置は覚えていても数や値段までは頭に入ってこない。これは年齢のせいだ。

前職のお店で厨房に立っていた頃、その当時の調理長から、メニュー(一品料理に入れる食材の種類や数は三日で覚えろ、(冷蔵庫内の)食材の配置は一週間で把握しろ、と教えられた。その通りに覚えた。
当時の私の頭の回転は速かった。覚える自信もあった。

あれから幾星霜。
駿馬(?)も駄馬になった。
様々な意味で私の”キャパ”が小さくなった。

日々の業務をやりながら、懸命に覚えようとはした。が、途中で諦める。
そして自分のキャパにあった仕事の仕方に変更。が、その自分のキャパの大きさがわからない。
冷蔵庫や冷凍庫と、レンジやまな板の間を行ったり来たりする。

(仕事の出来た)若い頃は、一回の行き来で、人参、玉葱、キャベツを持ってきたが、今、ほぼ三回往復する。実に効率が悪い。人参は覚えていても、歩いている最中に玉葱、キャベツは忘れる。
冷蔵庫の扉に手をかけながら
(あれ?、人参と・・・何だっけ?、何を持ってこようとしてたっけ?)

仕事は絶対的に遅くなった。というか、一人でこなすにはこの厨房は大きすぎるのだ。それでも、今の店を維持するには、一人で踏ん張るしかない。
調理補助はいても、中華の従事者はいない。和食と洋食の調理人が交代で調理補助してくれる。

シャキシャキしているホール責任者の女性と話す。
「メニューを減らそう。メニューも少数精鋭にしよう。」
かくしてメニューを絞っていく。
が、減らそうとしたメニューの好きなお客様の顔を思い浮かべると、減らそうとしたメニューがなかなか減らない。

小さな小さな中華料理店なのだが、有限会社という法人組織なのだが、ここにも高齢化がせまってくる。

意図せずに体重が減る。体調は悪くない。病気らしき症状はない。だが、体重はあと5キロほどで20代の頃に近づいてきた。
厨房内での、立ったり、しゃがみ込んだり、の連続で足腰に予想以上の負担がかかったいるものと思える。が、体調は悪くない。
ズボンの腹回りにすき間が出来てきた。
素直に喜ぼうかね。ダイエット成功と。

12月で調理長に辞めて貰ったが、あのまま雇用を続けていたら、おそらく2月、3月で覚悟を決めなきゃいけなかったかも。
コロナ直前の後楽園店撤退時もそうだったが、何かを決める時には、割合好結果がついてきていた。
もしかして、まだ、運が残ってる・・・?

(お店が)ダメになる時はダメになるし、助かる時は助かるし、最善を尽くして、結果を待とう。
幸運だけでここまで生き延びてきた。
幸運を信じよう。









いずれ朽ちる身なりて

10年一度の寒気は過ぎたが、足先の冷えを一段と感じている。
厨房でコンクリート床の冷たさが靴を通してジンジンと伝わってくる。
もしかして今年はじめて感じたのかもしれない。
糖尿で末梢血管まで血流が届かずのジンジンなのか。
寒気ゆえのジンジンなのか。
靴の出来が良くなくてのジンジンなのか。
靴下が薄いジンジンなのか。
ま、結論は老化のジンジンとしておこう。
若き頃はともかく数年前の自分には感じなかった痛みがところを変え、時を変えて出てくる。

諸処の健康紙などを見る(ほとんど読んだことがない、表題を見るだけなのだが。)と冷えや各部位の痛みなどの特集が組まれている。対象はほとんどが高齢者か女性だ。これは逆に高齢者や女性が身体に気遣い、だからこういう記事に目が行くのだろうと推察する。
私はこういうことに鈍感だ。鈍感だった。健康が当たり前だったから。
その私が身体のところどころの変調を感じ始めている。

病気というふうではない。普通に身体を動かせるし、順調(?)に仕事をしている。
今まで感じなかった身体の変調だ。そしてその変調は数時間という単位から、時として数日のいう単位に変わる。
多少の痛みやだるさ(疲れ)を伴うのだが、その”変調”そのものは面白いな、と感じている。

今年10月70歳を迎える。
”70”という数字を声に出してみる。
自分のこととは思えなく、周りを見てみるが、やはり私しかいない。
あらためて、70歳を、70歳の自分を見つめてみる。
間違いなく老人の域になっている。

あらためて身体のジンジンを見つめ直すと、宜(むべ)なるかな。
ジンジンが残り時間を教えてくれているようだ。





寒波到来

10年に一度の寒波!大雪注意・・・とニュースで騒いでいるが、ここ新宿に限っていえば、
(どこの話し?)
確かに寒い!風が冷たい!
でもそれだけで雪が降るわけでもなく、当然路面凍結という様も新宿には関係ない。いちおう雪かきのスコップは用意してある。
(ま、用心してコートでも着ていくかね・・・)
朝7時半。
空は青く晴れ渡っている。
雪は・・・ない。
自宅からお店までは100メートルほどの至近距離。

店に着いて、いつもの通りに開店準備にかかる。
バイクを移動し、看板を表に出し、厨房に入り、ガス元栓を開け、種火をつけ・・・。いつものルーチンワークだ。
ん?
水が出ない。
水道の元栓は隣のイタリアンと繋がっている。
あれ?
隣りが水道の元栓を閉めたのかな?

表に回り、水道の元栓をひねる。
お店に戻り、ふたたび蛇口を開ける。
出ない・・・。
ようやく気がついた。
水道管の凍結だ。

スープも湧かせない。お茶も湧かせない。
ちょっとした仕事にも水は欠かせない。
電話するも、水道局の留守電は8時半以降にかけてくれとのメッセージ。

寒波が一時の休息をプレゼントしてくれた。
コンビニでコーヒーを買ってきて、いつもと違うちょっとしたモーニングタイム。
8時半をまわり、水道局に電話が繋がった。
住所を聞かれた。お客様番号を聞かれた。契約者本人なのか確認された。
携帯番号を聞かれた。そしてようやく凍結の現状を話した。答えは
「溶けるまで待つしか無いですね。お昼頃には水は出るようになりますよ。」

ちょっと待て!
凍結しているというのは、電話で一番最初に話したぞ。長々と身元確認させ、その結果がこれかい!

いや、怒るまい。せっかくの優雅なモーニングタイムが台無しになる。
心が溶けるのを待とう。