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子育てと孫

ある記事の一節

「小3の娘が反抗期で妻が困り果てていたので
「人の命は3万日。父と母は残り2万日。同じ家に住むのは残り5千日。3人そろって休日を楽めるのは、どう頑張っても残り2千日」
と伝えたら、目を丸くした後、急に家事を手伝い「お出かけしよう」と言うようになった。
数字にだって気持ちは込められる。」

子供たちが巣立ち、その子供たちが育てる立場になっている。
孫の写真や動画がSNSでほぼ毎日のように届く。
生きるのに精一杯だった私たちの若かりし頃、ここまで子供達に構ってやれなかった。思い返しても流石にここまで子供に接する時間は作れなかった。
良し悪しは置いとくとして、子供の立場で、親(私たち)からここまで構って欲しかったのかな、と感じることがある。
さらに時間を戻して、私が子供の頃の記憶を呼び起こした。
誕生日や正月など、一年の間に数回しか卵料理を食べられないくらい貧乏だった。
親父が炭鉱で働き、母は専業主婦だった。女の勤め口などそうそうなかった。家をきりもみすることで大黒柱の親父を助けていた母。
顔が見えるほど母は近くにいたが、一緒に遊ぶ、構ってもらえると言うにはほと遠かった。
自然が舞台であり、虫や動物が先生で、同じく構って貰えない近所の子供たちと走り回っていた。
それが当たり前の時代だった。

孫が動き回り嬌声をあげている動画を覗き込みながら、時代とともに過ぎ去ろうとしている私がスマホにいる。

弱さの呪縛

経営に携わっていると、悩むこと苦しむことがたくさん出てくる。
人事、運営・・・・
景気が悪いと、特に出てくるのが金銭問題。
ここ数年赤字が常態でつきまとう。
さすがにここまで赤字が続くと苦しい。
水面に口を突き出してアップアップしている金魚状態だ。
 
自転車操業で止まることも降りることもできない。
お金をやりくりする経理部長(家内)を横目に、
(何とかせねば・・)
と焦るが、何とか何とかと思うばかりで具体的な方法は思いつかない。

なんでこんなに悩むんだろう
なんでこんなに苦しむんだろう

根本的なことを考えてしまう。
そうして、悩む苦しむ答えを自分で持ってないことに気が付く。
答えは絶対にあるはずだ。
あきらめた時が終わりなんだと、自分の中では踏ん張っている。
だが、いつまで踏ん張ればいいのか、どうやれば抜け出せるのか。

はたと気が付いた。
自分に答えがなければ、この答えを持っている人間がどこかにいる。
悩んだら人に聞け。
苦しんでいるのなら人に会え。
答えを持っている人がどこかにいる。

たぶん一番の問題は、
苦しんでいる悩んでいる自分をどこまでさらけ出せるか、
見栄も張りたくなる。
弱音を見せたくない、
弱い自分が一人になる怖さを知られたくない
私も含めてそこを抜け出せない。
人の弱さの呪縛がある。

 

猫が教えてくれたこと

最相葉月さんが書いた日経新聞のコラム。
身につまされたので、シェア。

———–◆◇◆———–

半年前、猫が死んだ。もともとウイルス性の鼻炎を患い、亡くなる数カ月前から出血が続いたが、最後はほとんど苦しむことなく静かに息を引き取った。人間でいえば80歳を超えている。十分生きたと思う。

飲んで食べるという生存の土台を自ら手放すことによって、いのちの炎を少しずつ消していった。寝ている時間が多くなり、食べ物を受け付けなくなってから3週間、水を飲まなくなってから1週間。だんだん呼吸の間隔が長くなって、最後に二つ、大きな息を吐いて臨終となった。

正確な死因は不明だ。レントゲンで腫瘍らしきものは見えたが、手術はむずかしいと判断し、対症療法的に鼻腔(びくう)の通りをよくする蒸気を嗅がせるぐらいで延命治療は行わなかった。これは過去に飼った2匹の猫をめぐる苦い経験が教訓になっている。

1匹目はベランダからの転落死、2匹目は腎不全だった。1匹目の衝撃が大きすぎたせいか、2匹目はとにかく死なせてはならないと何度も病院に連れていった。口をこじ開けて注射器でエサをやったこともある。この猫は苦しみながら死んだ。死に向かっている体を人工的に生き長らえさせたからだと思う。かわいそうなことをした。

末期がんだった私の父は8年前、尊厳死を遂げた。54歳で若年性認知症になった母のことは近い将来、私が判断しなければならないだろう。長い付き合いなので理解しているつもりだが、その瞬間に娘のエゴが邪魔しないとも限らない。私自身の番が来たときのことはもっとわからない。猫たちが身をもって教えてくれたことを胸に、よくよく考えておかなくてはならない。

月曜日のランチに選ばれないお店

今年に入り、1週間のほとんどを後楽園店で過ごしている。
50席ほどの店内で、平均ランチ数は50名。
新宿店のランチ数が席数40に対して60~70程度だ。80超えも珍しくない。4人席に3人だったり、二人席に1人だったりすることを考慮すれば、ほぼ2回転。
比較すると後楽園店のランチ数はどうしても少なく感じる。1回転しない。

夜の営業はともかく、まずランチから手がけようとして半年を過ぎた。
ランチタイムのサラダバーを導入。ほどほどの客入りでもサラダバー付近に人が群がるために入口当たりから見てると盛況に見えなくもない。お客様の反応もまずまずだ。
「よし、この調子で踏ん張ってみよう。本当に混み合うまでちょっとの辛抱だ。」

半年が過ぎた。
サラダバーの企画を出して2ヶ月後には10種類出す予定だった。しかしその間に職人さんが立て続けに2人辞めた。後任がなかなか決まらないうちに、とうとう厨房は一人体制になった。外国人調理補助をつけ、かつ調理人がお休みの時や2時間の休憩時には私が厨房にたつ。そういう状態の中、負担を考えて、厨房にはランチサラダバーの種類はコールスローを含めて7種類程度用意させた。メニューは何種類か出して貰っているのだが、原価のことを考えるとメニューがどうしても偏る。底を私が出来るだけフォローしている。
新宿からの道すがら、業務用の安売りスーパーがあり、そこで安いものを見繕っていく。
当日仕入れ、当日仕込む、即興サラダバーメニューだ。
そうやってランチの売上げを落ち着かせようと踏ん張っている現状だ。

だが、勤務ランチが伸び悩む。
おおむねお客様の受けは悪くない。が、それがランチ数として表れてこない。

大概のお店は、週の初めにその週のメニューを更新心してくる。昼食を過ごすのにランチ休憩が限られているサラリーマンにとって、ランチは貴重な時間だ。仕事で拘束されている一日で一番ホッとする時間だと思う。
そして月曜日、この週のランチが何かを偵察に来る。偵察の基準はいろいろあるだろうが、お気に入りのお店の様子を、まず最初に見に来る。
歓[fun]の新宿店が、まさにそのお店なのだ。その前の勤務していた新宿三丁目のお店から、そういうやり方で通してきた。そして、その区域のサラリーマンや住民に支持していただける仕組みを作っていた。それが当たり前だと思っていた。

月曜日の後楽園店、他の曜日よりもランチ数は10個ほど少なく感じる。
地域の方たちに支持されていない、少なくとも一番ではないと感じる。
後楽園店のある、地下鉄駅ビル5階に出店している、どの店も、月曜日は落ち着いている。
この地域での一番はどこ?
そして、どういう手段が残されている?  

 

寒波到来!

水が出ない!
7時。目は覚めていたが、身体はすっぽり布団の中。
「水が出ないぃ!」

はぁ?

「洗濯が出来ない!」
ベランダに設置している洗濯機の前で家内が吠えている!
(寒さ?水道が凍っているのか?)
「ねぇねぇ、トイレの水は出るんだけど、洗濯機の水が出ないの」
風呂も予約してあって、家内は一番風呂に入ったはずだ。だから風呂の水もOKだ。
ベランダ設置の洗濯機だけ。
(水道が凍ってる?!)

ブブブー。ブブブー。
マナーモードの携帯が震える。
相手の表示は新宿店厨房の北山。
時計はまだ7時半。
「おはよ。どうした?」
北山はマルイの弁当を担当しているために、早番勤務。

この日は歌舞伎俳優「香川照之」から依頼されたチマキ100個がある。
9時に引取だ。ために、北山はいつも以上に早い出勤だ。
「社長!水が出ない!」

(えっ、こっちもか)
「トイレの水は出てますが、厨房やドリンクカウンターの水は出ません。」
(こっちも水道が凍ってる・・・? 寒波のせい?)
開店以来13年、初めてのフリーズ!
自宅は家内に任せて、とりあえず店へ向かう。

通りは、雪が道路脇に寄せられ、灰色の塊になってあちこちに放置されている。
いったん溶けた水が再び凍り、踏めば痛い思いをするのは確実だ。

店に着き、水道の元栓を確認。凍って回せない。
屋根続きの隣家「生ハム」へ行く。
「水、出てる?」
「ええ、出てますけど、どうかしました?」
隣とは同じ水道栓を使っている。断水の可能性はなくなった。
とすれば、配管の一部が凍っていると判断すべきだろう。

念のために管理会社に電話を入れるが、案の定「お休み」
「営業時間は平日10時から・・・」
と無機質なテープの声が流れる。一つの解決方法が消えた!

とりあえず9時引取のチマキだ。
何か解決方法はないか?
隣り「生ハム」、向かいのうどん屋「母屋」に行く。
歓[fun]と同程度の蒸し器がないか確認する。
やはり、ない!
また一つ消えた。
他に方法は?

北山が
「後楽園店で蒸すというのはどうでしょうか?」
すでに8時半。
行って帰って移動時間が約40分。蒸すのが最低で30分。詰め替えの時間を加算すると
「無理だよ!」と却下。

(待てよ!もしかすると起死回生の一手かも。)
考えれば考えるほど、これしかない!
というより時間さえ間に合うのであれば一番の妙手だ。
ナイス、北山!

チマキの依頼者である香川照之さんのマネージャーに電話を入れる。事情を説明。
「水道が凍る?東京でそういうことが起こるんですか!」
「時間はどのくらいかかるのでしょうか?何時頃引取に行けば良いのでしょうか?」
良い質問だ。
「今からバイクでチマキを後楽園に持って行きます。20分弱。後楽園店でチマキを暖める時間と梱包に40分。帰りも同じ20分。1時間半です。」
「今が8時半なので10時には間に合わせます。」
「わかりました。それでいきましょう。それから緑川スタジオに向かいます。ギリギリOKです。」

結論が出ると行動は早い。電話を切った携帯をポケットに入れる間もなく
「北山、チマキ積み込むぞ」
「水はどうしましょう?」
「建物の管理会社の電話番号を教える。10時から営業だが、たぶん9時半には誰か来てるだろう」
「マルイのお弁当は?」
「あそこは少々遅くても大丈夫だ。お昼のお弁当時間に間に合えばOKのはずだ。とりあえずマルイの店長に、遅れるって電話入れとけ。」
バイクのキーを回し暖機運転状態にする。
発泡スチロールと、弁当用の籠にチマキを詰め込む。
雪解けあとのアイスバーンを避けつつ、慎重にハンドルを握る。
後楽園店に到着。B1の管理人室を抜け業務用エレベーターに。
5F。
厨房の電気を付ける。スチームコンベクションのスイッチを入れる。
ブーン。
機械が稼働する。10度程度だった庫内温度がぐんぐん上がっていく。
100度に達するのに5分。それから25分。計30分のタイマーを設定。蒸し上がったチマキを発泡スチロールに詰め、熱が逃げないようガムテープで封印。
さあ、再び新宿へGO!
帰路は出勤時間と重なり、混み始めた。
(今日は25日。そうか五等日か。混んでるはずだ。)

10時5分。
新宿着。
近くセブンイレブン前に黒塗りの高級ワゴン車が停車している。
バイクのエンジンを止めると同時に、香川照之さんのマネージャーが近づいて来る。
間に合った!

身も心も凍り付いた寒い朝だった。

故障、故障、故障・・・連鎖

チマキが絶好調だ。
ビックリするぐらいの注文が来る。大手芸能プロダクションからの発注が来るのだ。
100個、200個は当たり前。つい先日は2000個という注文が来た。
そして年末、紅白歌合戦のスタッフへの差し入れ2000個も来る予定だ。
電話を受けた社員は、この注文に即答できず、私の携帯に
「どうしましょう?」
「厨房はどう言ってるの?作れると言ってるのですか?」
「厨房は大丈夫だそうです。」
「だったら、引きうけてください。引きうけない手はありません。」
 
すでにチマキはお店では作っていない。作って貰っている。アウトソーシング、歓[fun]仕様の外注だ。
委託先が受注に問題なければ、あとはチマキをスチームコンベクションで温め直し、アルミホイルを敷き詰めた発泡スチロールに詰め込み、ガムテープでガッチリ封印し、チマキの熱気が逃げないようにするだけだ。
運転免許を有し配達できるドライバーは私と厨房の調理長だけだ。料理に調理長は欠かせないために、いきおい配達人は私の役目になる。
 
調理長が
「スチームコンベクションの調子が悪いんですが。業者に点検させたのですが、修理にかなりの費用がかかるみたいで、夕方、その業者が社長に相談しに来ます。」
(えっ、脅かすなよ。わざわざ断ってくるところを見ると、何十万円単位だな・・)

夕方後楽園店から電話が来る。聞くと冷蔵庫が効かないという。
後楽園店は以前から換気ダクトの調子が悪いと言われ、空調業者に見積もりを頼んだばかりだ。これだって40万円という見積もりが来ている。

こういう故障ごとは往々にして重なってくるのだ。
うぅぅぅ・・・・・
スチームコンベクションだって、チマキの受注がある限り、必須アイテムだ。
うぅぅぅ・・・・・
私が故障しちゃう!

いくたとうま

「もしもし」で始まった。
鶴瓶さんからのチマキの依頼だ。

10月前半戦は大手プロダクションからチマキ1000個の注文があり「おお!」
対前年比を大きく上回り、新宿店絶好チョー!
それが10月後半は急ブレーキがかかる。
思うように売上が伸びない。
好事魔多しという文句はこういう時に使うのは適当じゃないだろうが、
「どうして?えっ?おっ?」
忙しい日も予約だけで終わる。フリーのお客様が来ない、というより歩いてない。
選挙のせい?
景気のせい?
わからない。でも10月も明日で終わりというこの時期に、こういう注文はありがたい。
鶴瓶さん、いつもいつもありがとうございます。

「キャロットタワーに明日や、持って行ってくれはるか」
「ありがとうございます。どなたに?」
「いけだとうまはんや」
「いけだ・と・う・ま様ですか?」
「違う、いげたや」
「えっ、いげた?」
「違うがな、いくたや」
もうこの辺になると、鶴瓶さんの声が尖ってきている。
「いくたですね」
「あんさん、知らんか?いくたとうまや!」
「スミマセン、テレビをあまり見ないんで・・」
「生田斗真を知らんの!」
なぜか私は自分の浮き世離れした(だろうと思う)姿に、笑いをこらえられなくなった。
聞こえたのだろう、私の笑い声に
「あんさん、笑てんの」
「スミマセン、スミマセン、堪えきれなくて」
「いくたのいくは生(なま)、たは田んぼの田(た)や」
はいっ。
『とうまのとうは北斗の斗(と)、まは真実の真や」
鶴瓶さんに最後まで言わせてもうた。
「はい、調べておきます」
時間と個数を効いた後
「ほんまに頼んまっせ」
図らずも鶴瓶さんとの漫才トークになった。

笑い声を押さえきれないアルバイトのお姉さんに聞いた。
「社長、今、旬の人ですよ」
絶句のあと、口をあんぐり。
側で10代のアルバイトが笑いをこらえていた。
そこには
「何がおかしいんだ!」
と怒れない私がいた。

夜遅く、ネットで「生田斗真」を検索。画像を表示。
「なんだ、俺の若い時にそっくりじゃん・・・・」

「歩」の無い将棋は負け将棋

藤井4段29連勝
すご~い!
おまけに14歳!

私も将棋は大好きだ。
短期間だが将棋道場に通っていたこともあった。営業的だったのだろうけど、壁に貼り付けてある道場の棋士一覧には初段のところに私の名前が書いてあった。ま、正直、実力はせいぜい2級程度。
ともあれ、これで将棋熱が高まることがあれば、とてもとても嬉しい。そして誕生した二人の孫が将棋を覚えて、私と対戦することがあれば・・・・とまだ見ぬ夢に心がワクワクしている。まだ半年ほどと1年ちょいの孫なのに。ジジ馬鹿だね。
 
最近、町会や商店会などの会合に参加する機会が増えている。5月には祭りの祭典委員長を仰せつかった。お店を構えてから12年経ち、
(ようやくこの町の人たちに迎え入れられてきた)
という感慨深く、とても嬉しかった。同時に(町に対して私に出来ることは?)と考えた。が、町の行事に対してほとんど知らないことに気がついた。
町に積極的に関わっていこうと、思った。
それは町のなかの人間関係を知ることでもあった。

二人以上集まると、夫婦喧嘩のように諍いの材料が出てくる。
この町にも、ボタンの掛け違えのような人間関係が見えてきた。
(えっ、どうして?)
ひとつひとつは些細なことであり、ちょっとした言葉遣いや気遣いで解決することばかりなのだ。
解決する方法を『排除』のみにすると世知辛い世の中になる。
(うわぁ、世間を自ら狭くしている)
この方はとても良い方なのだ。人の話にも耳を傾けてくださり、温和な顔立ちをされている方だ。
なのに、困難にぶつかると『排除』という方法を選択される。心に余裕がなくなってきている。
この方ばかりでない。町の要職にある方や長老と呼ばれる方たちも、何かあると
「あれは駄目だ」
「辞めさせちまえ」
と短絡的な言葉がすぐに出てくる。
一時の感情や短慮で、言葉を発するのだ。
最終目的がどこかに吹っ飛んで、ついでに集まった人たちも吹き飛ばしている。
この町のことでしょう。
この町に住んでいる人たちが楽しく穏やかに過ごすためでしょう。

私もたまに口にすることがあるので偉そうなことは言えないけどね。

水前寺清子の歌に「歩のない将棋は負け将棋」なるフレーズがある。
一番小さな力しかない「歩」
でも、「歩」の使い方を覚えれば、将棋力は格段にアップする。
そもそも「歩」がなければ将棋が成立しない。
「歩」が無ければ「王将」もなくなってしまいますよ。

将棋は一人で指すけれど、王様一人に頑張らせないで。王様が疲れちゃうよ。
王様には金銀含めて、働きたがっているたくさんの部下がついているのだから、部下を上手に使ってくださいな。

妻と二人の部屋は6階にある。
6畳のベランダ続きの部屋に二人の寝室がある。
いまだに一つ布団で寝ている。
 
ブ~~~~ン
あれ?蚊だ。
6階にも蚊が出てくるんだ。
暗くした部屋の、音を頼りに
ペシッ!
(うーん、はずした・・)
しばらくすると、またブ~~~~ン。
(うるさいなー)
タオルケットを引き寄せ、全身に包ませる。
隣りに寝ている妻の、足下の毛布をこそ~っと引き上げて、彼女の肌を膝のあたりまで露出させる。
・・・・・・
翌朝、
「ねぇ、蚊が飛んでたね。私刺されちゃったぁ」
「まだ、痒い」
ほんのり赤くなっている痕を横目に
「あ、そ、たいへんだったね」
仲の良い夫婦なのだ、私たちは。

アルバム

私には3人の息子がいる。
それぞれ大きくなった。
37歳、33歳、31歳。
上の二人はすでに結婚した。
昨年4月に次男が娘を、今年1月長男が男児を設けた。
名実ともに私も爺になった。
余り実感はなかった。仕事が忙しいのだ。
時折孫たちを連れて息子夫婦がやってくる。
長男の息子(孫)はまだ3ヶ月。床でもがいているだけの存在だ。
歩くようになり、言葉を話すようになれば、もっともっとかわいくなるのだろうが。
次男の娘(孫娘)は1歳になった。
歩く。
笑う。
メチャ可愛い!
どういうわけか、家内より私になついている。いや、まだ「なつく」という表現は出来ないが、少なくとも抱き上げて孫娘は泣くことがない。
現時点では孫娘の方が可愛い。私に女兄弟が泣く、生まれた子供が全て男だというのが影響しているのだろうと思う。
 

長男が生まれたとき、当時の父から貰った飾り兜と幟(のぼり)と鍾馗様を描いた掛け軸がある。部屋の奥にしまってあった。どこに置いたのやら・・・・。
もうじき端午の節句。孫の初めての節句だ。孫のために持って行ってやらねば!
その兜を捜した。見つけた。同時に長男のアルバムが出てきた。
鹿児島で生んだとき。
妻の実家、山形に連れて帰ったとき。
爺婆に抱かれているとき。
まだ突っ張っていた顔をしている私の腕の中。
初々しさの残る妻の乳房を加えているとき。
保育園の門をくぐったとき。
幼稚園の門をくぐったとき。
長男を中心とした思い出がいっぺんに蘇ってくる。
長かった道のりを、ここまで歩いてきた道のりを振り返って
「よう頑張ったなぁ」
 

涙が頬を伝う。
(えっ?)
涙の意味がわからない・・・
でも止まることなく涙が流れ出てくる。
孫のために出した兜と一緒に、長男のアルバムも一緒に持ていくつもりなのだが。
そのアルバムと一緒に、私と、妻と、長男と、その思い出が失くなる・・・・。
そんな思いが、涙を止められないのだ。
孫が出来た、家族が増えた、可愛い孫・・・
喜んでいいはずなのに。
すぐそばにいた妻も涙を隠せなくなっている。
間違いなく、ここに世代交代を感じる。
一晩寝れば、忘れる涙なのだろうが・・。

妻と二人だけの生活がもうじき待っている。
さあ、ラブラブな新婚当時に戻るぞ!
えっ?そう思っているの俺だけ!