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平櫛田中

死にたくても、死にたくなくても、怖くても、嫌でも、やってくる「死」
4歳下の弟の余命宣告を聞いてから、けっこう考えさせられた。
もちろん今までだって「死」については何度も考えたことがあったし、どんどん身体の老化がすすみ、否応なく「死ぬ準備をしろ。」との神様の声は聞こえている。
知人友人のなかにも故人になった人はいる。身近になってきているのだが、まだ自分と切り離して考えているところがあった。

仕事がきつい。
身体的にきついのではなく、営業的にまわすのが厳しいと感じるのだ。
あ、訂正。身体的にもきついのだが、会社の未来(といっても数ヶ月~数年程度なのだが)を社長としての立場で考えると、人員補充を真剣に考える必要を感じているのだ。
私が倒れる、傷病で身動きが取れないという状況での、会社やお店の苦難を逃れる方法を見つける手立てが欲しい。
そのための人員補填だ。

生死は神様におまかせするとして、とりあえずまだ生きている。仕事(会社)が続いている。存続を優先させようと思う。
お先が見えない中で私の結論なのだ。

身体に不自由が少しずつ来ているが、まだ動いている。判断力もまだ残っているようだ。従業員の生活や借金など引退できる状況でもない。逃げられない。とすれば、攻めるしかあるまい。

普通にストレスなのだろうなと思う。これが寿命を縮める要因かも知れない。若い時だったら普通に反発力に変換することができるのだろうけど、まだその反発力が残ってるかな・・・。と思う今日この頃。

108歳で亡くなった、彫刻家平櫛田中。この方が98歳で発したという言葉、
「俺がやれねば誰がやる。今やらねばいつやれる。」
先達はえらい!
72歳になろうという今こそ倣わん。

でも・・・明日になれば・・・
強気と弱気が交互にやってくる70歳過ぎの毎日です。

BPPV

先日胃腸炎の話しを書いたが、日曜も体調がおかしい。
土曜日に兄弟、息子、孫と30名近くが集まった。
子供が10人程度、大人が20人程度。
歓ファンのお店を使った。だから料理は私が全部作った。
数日前から準備をし、当日の仕入れ仕込みもほぼ一人でやった。
仕込みが終わってからも、料理を出す段取りを頭の中で繰り返した。
けっこう神経は使ったようだ。

途中から宴席に加わった。会そのものは兄弟それぞれの子供たちが仕切ってくれた。タバコ組の弟たちは店外の灰皿が置いてあるところで話し込んでいた。私も加わる。余命宣告されている末弟なので、こういう機会は最後かも知れない。
酒の勢いも加わったが、調理という仕事の後で私の気持ちがまったく落ち着いてなかった。老齢と疲労と酔いがからまり、途中から参加する弟の子供たちが、弟の最後の話す内容を絞り込めさせてくれなかった。
兄弟とそれぞれの子供たち、孫たちが集まった会はとても楽しかったのだが、それを上回る疲労と仕事から解放された身体が、宙に浮いていた。

次の日、兄弟夫婦の会を持つつもりだった。が、まったく起きられない。身体が重い。起き出したのはお昼過ぎ。お店に入っている妻から電話があった。
鹿児島の次男夫婦がお店で待ってるよ、という電話。

隣のお店で長男次男夫婦の食事を取った。
私はハイボールを頼んだ。飲んでいる最中に少し目が回る。酔いだけのせいではない。。ハイボールはまだ一口程度しか飲んでない。
床の方を見ていた。急に視界がぐるぐる回る。
えっ、これ何?
座っているイスを掴んで踏ん張ろうとするが、今度は吐き気を催してくる。
先日の胃炎になったときと同じような症状だ。
弟夫婦に気を遣わせたくなかったから、平静を装うが、もしかしたら顔色も悪くなりかけていそうだ。
床ではなく、上の方を見ていたら症状が落ち着く。
えっ、これ何?

近くのホテルに向かう弟たちと別れ、いったんは隣の自分の店に戻る。
素直に妻に自分症状を話し、少し横になってから家に帰ると伝える。
「下を向くと目眩がする、吐き気がする」で検索をかける。

BPPVらしい。
難聴や下痢はない。
症状は一致する。
60歳以上、つまり高齢者にでてくる比率が多い。
疲れやストレス、睡眠不足が誘発するとも出ていた。
全部当てはまる。
年を取って初めて体験することが増える。
見た目は若作りでも、確実に高齢化しているようだ。

末っ子弟の余命宣告。鹿児島から出てきた弟のヨタヨタ歩きの危なっかしい足下。
三組の兄弟夫婦6名。集まってくれた子供たち孫たちから、本物のじいちゃんばあちゃん扱いは、数十年前の私たちが接した自分たちの親たちと同じじゃないかとあらためて愕然とする。

時の流れ。
初めて経験した「BPPV」も老化を確実に教えてくれた。

座右の銘と好好爺

久しぶりの友が来た。
友がその友人を連れてきた。
そのみんなと、仕事終了後に呑みに行った。
まだ体調は戻っていなかったが、それを忘れさせるくらい楽しい時間だった。

話しは座右の銘になった。
昔と今の私の座右の銘は違う。
昔の方の座右の銘「泣くよかひっ飛べ」だったという話しになった。
薩摩の昔から語られていた言葉だ。
目の前に川があって、それを飛べ越えられるか悩んでいる(泣く)くらいだったら、飛んでみろ。飛び越せるかも知れない。飛び越えられなくても川底に足がつくかも知れない。飛んでみなきゃわからないことだ。つまりは、まずは行動を起こせ、やってみろという教えだった。
あれこれ慎重に考えるより、先に動いていた私だった。聞こえは良いが、要はけっこう軽率な私だった。だから怪我する(手痛い思いをする)ことも多かった。
それでもこれまでの人生を振り返ったときに後悔は少なかった。失敗が次の次善策を教えてくれた。
でも、これは行動を起こせるパワーが私にあったこそだった。
老いてそのパワーが少なくなった今の私にその座右の銘がしっくりこない。

友には、今の座右の銘は「天網恢々疎にして漏らさず」と伝えた。
悪いことも良いことも誰かが必ず見ている、ごまかしたり騙したりしてもいつかはバレるよという意味合いなのだが、この歳になると、いつもの通りの行動になる。そしてそれは顔に出るよ、出ているよ、と。

今となって新しいことをやるにはパワー不足だが、今までやってきたことに悔いはないし、間違ったことをやったとも思ってない。
誰に褒められるわけでも認められるわけでもないが、でも、お天道様は知ってるよね、これからもできる範囲でいろいろやっていくからね、という意味で私は使っている。自分に恥じないか、という基準。

友たちも大いにうなずいてくれた。
この歳になってこういうことを語れる友がいてくれるのが、私は恵まれている証拠かも知れない。
三人ともそれぞれに好々爺の顔になっている。

美味しい酒の一晩だった。


胃腸炎

 22日土曜日夜、突然胃がむかついてきた。
8時過ぎだったと思う。
お客様は残っていたが、料理はほぼ出終わっていた。
厨房のイスに座り、お店の終了を待っていた。

突然、喉元に胃液が上がってくる。
わ、わ、わ、あぶない・・・
トイレに駆け込んだ。
この日は4回ほどトイレに駆け込むことになった。
身体はグターとなる。
家にいる妻に電話をかけ、レジ締めを頼んだ。

お客様がいなくなっても身体に力がみなぎらない。
客席のイスを並べて横になる。
片付けが終わり、従業員が帰る段になっても起き上がれない。

ほぼ連日の酒飲みが影響していたと思われる。
翌日の日曜日、新宿三丁目で会合があったが、顔だけ出して帰った。
後はひたすら寝て体力の回復を待った。

24日朝、体重を量った
73kg。
なんと胃腸炎を発して二日で3kgも減ったことになる。
いまだ力が出なくて、我ながら弱々しいが、
体重が減って少しルンルンになっている自分がいた。
馬鹿だねぇ



料理教室当日

3時半に目が覚めた。
ヤバっ!寝過ごした。
3時半じゃ間に合うはずもないのに、ガバッと起き上がり、シャツを着込んで部屋の外へ・・・
窓の外が暗い・・・
えっ?・・・何で暗い・・
あ、まだ、夜か・・
寝たのが夜半の1時頃だったのだが、寝過ごしたと感じるくらいぐっすり寝ていた。

料理教室のレシピ3枚綴りを作り上げたのが11時過ぎ。、持ち込む道具類を確認し、生もの以外はバイクに詰め込んで準備は万端。
それでも気は張っていたのだろう、3時半という目覚め。

料理教室は四谷区民センター。







 受講生は20名ほど。
 前回開催したのがコロナ前だったので、たぶん6年以上前。
それも二戸調理長がいた時分だ。私が講師側として登壇するのは初めて。
教室の内部は知っていても、IH調理台の操作方法とか、ボールなど器財場所などはまったく把握できてない。
レシピは作っていても、厨房とはまったく環境が違う場所で、受講生のレベルも、段取りに携わっている方たちの技量もわからない状態で、頭をフル回転させていても、果たしてうまくいくのかどうか・・・。

10時5分くらい、スタッフや受講生に集まって貰った。
大まかな流れと、レシピの説明などを話した。
割と若い方が多い。30代~40代が半分程度、50~60代が約10名、70歳代と覚えし方が10名程度という構成。

料理は3品。実質的に作るのは2品。
料理教室案内画像では「炒飯」が書いてあるが、前回のブログで書いたとおり、炒飯をなくして、春菊ハルマキと鶏軟骨甘辛炒め。
けっこうたくさんの油を使う。しかもIH調理器具でだ。
お店の厨房での段取りとはかなり違う。
(わぁ、けっこう、かなり要領よくやらないと時間通り終わらないぞ!)
まず感じた不安だった。

教室内の引き出しを全部開けて、器具の位置や在庫数を確かめた。
悲しいかな、歳のせいか覚える束の間に、直前に確認した物が順次うろ覚えになる。
必死で、作業の流れを、使用する器具の確認とともに、タイムスケジュールを頭の中で組み込む。
(サブでサポートするメンバーが一人欲しい!)
お店で片腕を務めてくれる女性は、スケートフィギア選手並みにクルクルと会場中を走り回っている・・
こりゃ頼めないや。
壁時計を見ながら、受講生やスタッフに集合をかける。

「みなさん、おはようございます。これから料理の講習を行います。調理歴はそれなりにありますが、指導はさほど慣れていません。この会場を使うのも初めてです。みなさんとの出会いも今日が初めてです。初めてづくしが多々あります。ここはみなさんと共同作業での料理教室としたいと考えています。よろしくお願いします。」

2リットル入りの油を3本用意したが、20名5テーブル分は、これで足りるかどうか。メインテーブルにかけてあったお湯が沸いた。
「春菊は、小分けしてある皆さんの分まとめて湯がきましょう。湯がいた後に5等分します。」
なるたけ受講生に実施して貰うようにして、私の手や目は極力空けるようにした。
「手の空いている方は、春巻きの皮を止めるノリ作りです。小麦粉をこの程度ボールに入れて、水を少量ずつ加えてかき混ぜます。」
1個だけサンプルを作り、皆に見せた。
「次は10枚入った春巻きの皮を、巻きやすいように剥いておきます。」

こうやって生徒自ら動けるよう仕向けていった。やりながら(案外この方法は活けるかも・・・)と夢中になり始める受講生たちを観察していた。
一つ一つの工程を、1度だけ見せながら、受講生たちに促していった。
料理を受講するだけ会って、調理することに抵抗はないのだろう、慣れない手つきでも順次実行に移していった。

時間内に終えるべく、レシピ工程も極力「簡易・簡単」にした。
サブタイトル「プロが教える手抜き料理」と題目通り。それが受講生が行動に移しやすかった理由でもあったと思う。

11時15分ころ。ほぼ全部のグループが調理を終えていた。
恒例のスタッフの一人が、出来上がった料理を隣の試食ルームに運ぶように促す。残った方たちは片付けするようも伝えていた。
テキパキとはいかないが、けっこうスムーズにいった方だと思う。

試食が始まり、同時に質疑応答も始まった。感想もそれぞれが話した。特に春菊の春巻きは、概ね良好な感想だ。

良かった・・・と心から感じると同時に、疲れもどっと出てき始めていた。私は自分の分の試食はほとんど手をつけられなかった。食欲がまるで湧かない。

もういいな、依頼が来ても三年はこの料理教室は断ろう。




料理教室

3月15日に料理教室の先生をすることになった。
30名ほど許容できる四谷区民ホールの調理室を使う。
町会婦人部にこれまでも何度も頼まれていた。が、人手不足を理由に断っていた。何度も頼まれていたため、今回は断り切れなかった。
それが来週の土曜日に迫ってきた。メニューは決めたが、レシピも作ってない。少し焦ってきている。予約がないから今日明日で作ろうとは思っているのだが。

メニューは、相当手抜きができるメニューだ。手抜きを逆手にとって、サブタイトルが「プロが作る手抜き料理」とした。
で、歓ファンに出入りしている業者(問屋)に協力を仰いだ。問屋から話して貰い、 食品製造会社に新商品を提供していただく。その商品を使ったメニューを考案、調理。さらには協賛して貰うサンプル品を受講される方たちに配布するという形を取った。

メニューその1 「春菊ハルマキ」
春菊を使ったハルマキだ。これは歓ファンでも提供している。評判も上々の商品だ。このハルマキの味付けに「シーフードソース」なるものを使う。アサリ風味のコクが特徴だ。
メニューその2「鶏軟骨の甘辛炒め」
鶏軟骨が素材のポリポリ食感の、すでに揚げてある冷凍食品を使う。
冷蔵保存ができる甘辛ソースを当日受講生に多めに作って貰い、余ったソースを持ち帰って貰い、鶏軟骨以外の、例えば豚挽肉茄子炒めや、鶏肉炒めなどを自作して貰う。
メニューその3「濃厚杏仁豆腐」
製造会社は、ゼリーやゼラチンを作っている会社で、このゼリーを使った新商品を多々提案している。この会社で提案している杏仁豆腐は名前の通り濃厚に仕上がっている。かって渋谷区神南にあった「文琳」という中華料理店がだしていた杏仁豆腐にそっくりで美味しい。

今回の料理教室、地元の方にいろいろと頼まれるのは、それだけ地域にお店が定着してきた証しなのだが、
スミマセン、15日土曜日のランチお休みします。
その分の売上は伸び悩む・・・・・。
ホント悩ましい!




糖質制限

土曜日、糖質制限食を求めるお客様がいらっしゃった。
止めたわけではないのだが、糖質制限はすっかり遠くなってしまった。
特徴だったふすまパン、大豆パンも発注してない。したがってお店には置いてない。低糖質麺もない。

予約であれば、ある程度は用意はできるが、昨夜は突然のお客様だった。
ご飯抜きのセット(定食)メニューを注文された。
近くのスーパーにコンニャク(白、黒)を買いに行った。それを米粒大にカット。それだけでは歯ごたえがないので、賽の目に切ったチャーシュー、エビ、イカを加え、通常の半分のご飯に混ぜて炒飯を作った。
お客様にもお詫びをしながら、今日はこの程度の糖質カットしかできない旨を説明した。

帰り際、お客様が厨房の入口まで来られて、お礼を言われた。
「スミマセン。私もバリバリの糖尿病なのですが、自分向けの糖質制限はやってますが、お店では提供していません。」
と、糖質制限では商売が成り立たないことを謝った。
それでも、急な注文で対応していただけたことを嬉しそうに言ってもらった。
こういう方たちを見ると、何らかの方法で継続できなかったかなぁ、と悔いを感じる。

今でも私は糖質制限を信じている。理路整然としているし、実際わたしの身体の数値も良い方向で変化していった。
でもね、ご飯、美味しいよね。
パンも好きだもん。
どこかのコマーシャルで言ってた「美味しいものは糖と脂でできている。」
まさにその通りだと思う。身体には悪いけど。
レストランを営んでいて、(美味しい)という需要と供給を考えると、いつも悩む。糖質制限を、健康な他人に理解させるのも、けっこう厳しい。
世の中「正しい」が全てではない。

従業員の生活やお客様の求めるものを考慮すると、ものすごーくやわらかい糖質制限でしかできない。
糖質制限を提唱する、賛同する方たちにとっては、私のやり方は裏切りに映るかも知れない。

脳の深部に、糖と脂に置き換わる美味しさを感じる遺伝子組み換えを・・・・。
ダメだ、調理から逃げてる・・・・
誰か解決方法を教えてくださいませ。

鶴瓶チマキ

やった!
久しぶりに鶴瓶師匠から携帯に電話があった。
チマキの注文だ。
あいかわらず突然の電話で当日配達の注文。
ランチの最中に電話があって、13時でどうか?と。
「師匠、スミマセン。今、ランチです。ランチが終わるの14時です。」
「そうやな。何時だったら大丈夫だんねん?」
「場所はどちらですか?」
「赤坂の○○○病院や。」
すばやく到着時間を計算、赤坂だったらギリギリ15分あれば・・・
「師匠、14時15分ぐらいでどうですか?」
その病院からの電話だったようで、受話器から漏れる声は
大丈夫・・・云々
「ほな14時15分で配達してんか。」
「はい、ありがとうございます。」
簡単に断れる相手じゃない。
ましてや渦中の『中居問題』に関する話しなど問題外。

ということで寒風吹きすさぶなか赤坂までバイクを走らせる。
なんと行った配達先のお客様から、またまたチマキのご注文。
なんか、わらしべ長者ふうではないか。
注文が連鎖する。
帰り道、寒風は涼風にまで温度がぬるくなっていた。
笑福亭鶴瓶さん、やっぱり招福はあっても招禍はありえない。
つくづくそう感じた。

よしひろ

私に弟が二人いる。
兄弟はちょうど二歳ずつ離れている。
私は長男だ。
私の名前はよしひろ。次男はひろゆき、そして末っ子はゆきお。
しりとりになっている。
母に聞いた。しりとりは偶然になったそうだ。
が、私はこのしりとりになった兄弟の名前が気に入っている。
喧嘩はしたことあったが、兄弟仲は良い。
お気に入りが過ぎて、私は我が子にもしりとりで名前をつけた。
かずみ、みつひろ、ひろみち、と。
我が子にも仲の良い兄弟でいて欲しいと願った。

戦後支那から引き上げた父が家族を食べさせるために勤務したのが長崎県江迎町の炭鉱だった。物心ついたころは炭鉱の長屋だった。
兄弟の背景はまず炭鉱の長屋周りだった。チャンバラであり、カッタ(関東ではメンコ)でありビー玉であり、紙芝居であり、昭和を兄弟で歩んだ。
まだ親の経済状態など知るよしもなかった。ひたすら遊んだ。野や山が遊びだったし戦場だった。
親は斜陽産業だった炭鉱をやがて辞め、両親の実家である鹿児島へと引っ越す。小学校途中から兄弟の舞台は桜島を毎日ながめる錦江湾奥の加治木町へと移る。
加治木は古い城下町で、炭鉱町とは学校のレベルも違った。ひたすら遊んでいてもOKだった環境とは一変し、ある程度学業に勤しまないと成績が追いつかなかった。
私たち兄弟の遊びも読書という時間が増えた。呼応するように親は文庫本セットを買い与えてくれた。私と弟たちの読書レベルは同等で始まった。弟たちにとっては年齢以上の読書レベルになっていた。そのせいか後年三男は文筆業に携わることになる。
性格が似ていたせいか、私と三男はよくぶつかるようになった。ただまだ子供の喧嘩の範疇だった。打算がなかったから。

兄弟はそれぞれに大きくなって家庭を持つ。それぞれが三人ずつの子供をもうけた。それぞれに紆余曲折があったが、兄弟の中が壊れることはなかった。

一番下の弟が調子が悪いそうだ。
8月の誕生日で今年68歳になる。
私よりも4年若い。
どうにもやりきれない。
私たちの親父は66歳で亡くなった。
親父よりも長く生きた、と弟は言う。
でも、やりきれない。

寝坊

やべっ!
8時にかけておいた目覚ましでいったん起きたものの二度寝をしてしまった。今の時間は・・・と?
あ、時計の針は8時を15分くらいしか回ってない・・間に合う・・

もう10年ほど前から夫婦は別々の部屋で寝ている。同じ布団だと、夜中のトイレなどで起き上がったときに妻を起こしかねない、それよりも気兼ねしないで済むよう、別々な部屋で寝るようになったのだ。
良いか悪いかは知らないが、夜中に本を読んでもゲームをしても妻のことを気にしないで済むようになった。慣れてきたら妻も同様に、どうどうといびき(?)をかくようなった。
そんな妻の部屋に、靴下はおいてある。

シャツやズボンを羽織った後、靴下を取りに妻の部屋に行った。部屋の中は真っ暗だ。入口近くの部屋のスイッチを押す・・・・。
ん?ん?
点かない。どうして・・・?
数回スイッチを点けたり消したりしたが、点灯しない。
部屋の蛍光灯から視線は下にさがった。
暗い部屋の中に、もっこりした布団を発見。
えっ?
妻は私より先にパートに出かけたはずだ!
(えっ、こいつも寝坊したのか?)
寝起きで混乱している頭は状況を把握しようと懸命だ。

えっ、もしかしたら・・・。
妻の部屋の時計を確認した。
あ、まだ5時前だ。えっ、オレの部屋の時計は・・・と部屋に戻ろうとする背中に
「何よ、寝ぼけてるの。こんなに早く起きて、何するのよ。私を巻き添えにしないでよ。」
と、妻も寝起きの間延びした声で私に文句を言う。

もう目覚めた妻を後ろに、今さら忍び足で部屋を出て行った。

スマネェ、スマネェ、もうちょっと寝てくれ・・・・
心のなかで謝っていた。