毎週土曜日、産経新聞の「週刊誌うおっちぃんぐ」というコラムを好んで読んでいる。今週は
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今年も8月15日がめぐってきた。この日を意識した特集では『週刊文春』(8.13/8.20夏の特大号)、昨夏もやった「戦争の記憶を紡ぐ 時代の証言 百寿者が見た戦争」。
当時、戦争に巻き込まれた若者たちも、今や100歳前後。〝史上最悪の作戦〟と言われたインパール作戦に参加した佐藤哲雄さん(106)の証言。
<撤退の道中、ハゲタカがね、羽を広げて体当たりしてくるんだよ。狙われたのは、負傷や飢え、マラリアなどの病気でフラフラになっている兵士。倒れたら最後、二羽三羽とのしかかられて、顔とか肌が出ている部分から長いクチバシでつつかれ、食われていく。
ヒョウも、衰弱した兵を襲おうと木の上から機会を窺(うかが)っている(中略)だけどバタバタと倒れた兵は、ハゲタカや猛獣に貪(むさぼ)り食われ、わずか数日で白骨になった>
もう一人。陸軍の高射砲兵だった松坂亀一(かめいち)さん(101)。8月6日。あの日、国鉄広島駅にいた松坂さんは、駅に近い救護所で運び込まれる人々の応対をした。
<忘れられないのが、小さい男の子を連れた、焼けた着物姿の母親です。「助けてください」じゃなく「兵隊さん、もう殺してください」言うて、私にすがりよるんです。体の半分が焼けとって、「もう始末つけてください」と。いま思い出しても辛いです>
読んでいても涙が止まらない。
5人の証言が5ページ。10人、10ページくらいとってもよかったのでは。
終戦記念特集はYouTubeでも。
アニメ「ジパング」26話が期間限定公開されている。講談社の「モーニング」かなんかで掲載されていたアニメだったと記憶している。立ち読みだったか単行本だったか忘れたが、紙媒体で1、2話程度読んだ覚えがある。かわぐちかいじの緻密な画と細かな兵器データに驚かされ、アニメというより読み物として引き込まれた。
YouTubeで流れている画面に「協力・防衛庁」とあるのもうなずける。
イージス艦がタイムスリップして太平洋戦争のまっただ中に置かれるというSFものだ。当時にない能力を保持した戦艦が、その能力ゆえ、戦争という非日常に突然置かれたときの、過去人、未来人に限らず、人々の葛藤が細かい描写で描かれている。
痛みを伴わないSFアニメだけに賛否はあるだろうが、「戦争」を考えさせる一つのきっかけになるかと思う。
ブログ
湯船の中で
風呂につかる。
ここ1ヶ月ほど身体に違和感を覚える。
月一の健康診断では異常はない。強いて上げれば、以前主治医から言われた
「肺に影があります。カビなのかガンなのか今のところわかりません。大きな専門病院で看て貰ってください。」
くらいだ。が、診察は受けてない。ヘタに病名がわかり入院など言われもしたら困った。診察日が3月4月の閉店整理さなかであったからだ。
以後そのままになっている。
違和感は覚えるものの、身体に痛みや不都合の自覚はない。
新しい仕事を始めているが、以前と比べると負担は格段に少ない。採算はともかくも、マイペースで仕事をこなしている。
営業許可申請が遅れていたせいもあり、目立った宣伝もしていない。が、お客様の反応を見ていると、時間がかかってもいずれお客様は定着するだろうとの手応えはある。
年齢的にも身体的にも、ここはノンビリ、確実にやっていこうと腹は決めている。
風呂につかる。
身体に違和感を覚える。
仕事は格段い楽になっている。
だのに 病気なのか老化の一部なのかは不明だが、今まで感じたことのない疲労感と覇気の衰えを感じる。
4歳下の弟の、昨年の訃報をよく思いだす。67歳だった。
俺だって、もういつ亡くなってもおかしくない歳なんだと、自分に言い聞かせる。
72歳という歳で始めた新しい仕事を、ホントに始めて良かったんだろうか、と、浴槽につかりながら問い直す。
私が20歳の時、鹿児島で日本蕎麦屋を営んでいた親父から、
「これから中華の世界がやってくると思う。お前、中華料理を覚えてみないか。」
と言われた。親父としてはいずれ私を跡継ぎにという思いがあったのだろう。
私も諸事情で大学進学をあきらめた時期だった。2年続けた大学浪人生活に終止符を打ち、新橋に会った中華の老舗「新橋亭」の門をくぐった。以来50年「中華料理」というレールの上を走った。職人(調理人)であり、営業職(店長)であり、経営者という分岐点はあったが、中華料理というレール上を50年ほど走り続けた。
私のなかでは面白い人生を歩かせて貰った。職人時代も、営業職時代も、経営者時代も、自分で考えたことをほぼ実行できた。だから悔いがない。
失敗すらも楽しかった。
風呂につかる。
浴槽の中で過去の思いにふける。
思いにふけるという自体が、自分自身を過去に追いやっている。
風呂につかる。
身体に違和感を覚える。
まだ生きてて良いのかな、
まだ生きてる意味があるのかな、
まだ生きてる価値があるのかな、
上手に言えないが、そういう違和感を覚えている。
山の日
祝日「山の日」
お盆休みと連なる夏の大型連休。
妻も明日から5日ほどの予定で実家の山形へ帰る。
実家は山形県東置賜郡川西町にある。
地図上では朝日連峰と飯豊連峰の狭間にある小さな町だ。
趣味が登山と公言していた40歳~50歳ころは、いずれ妻の実家で余生を送るつもりだった。妻の実家にてこの連山を歩いて回るのが引退後の夢だった。標高は2,000m前後と、少し無理をすれば日帰り登山も難しくはない。
夏山は、1ヶ月前から山地図をにらみながら計画を練った。富士山だったり、丹沢だったり、尾瀬だったり。近いところでは大山や奥多摩、高尾山。
その中でも一番好きな山が、木曽の御嶽山だ。
山道のところどころに置いてある石仏が、私を誘う。3000mちょいの標高で、お天気の変わりやすい山だった。十年ほど前の噴火がなければ、まだまだ行けてた山だった。
明日から妻がいなくなる。ホントはこういうチャンスで山を計画したかった。が、今は足に3000m級の山を目指す自信がない。年齢と、この数ヶ月間の休業状態が足腰をかなり弱らせた。
せめて自転車をと思ったが、200kmほどを走破する肝心の自転車が今はない。
早くこの店を軌道に乗せて、身体をいじめたい。
この小さな冒険に思いを馳せるだけで、ときめく何かが身体のどこかにまだ宿っている。
新店舗オープン
お盆を伴う夏休みは先週から始まってるところが多いかと思う。
明日は祝日の「山の日」。そしてお盆。
「隠れ家 歓fun」の営業許可証が本日発行された。新宿保健所まで取りに行った。知人を招いての模擬営業は始めていたが、やっと公に営業を知らせることができる。
BARだ。カラオケができる。
新宿区新宿5-3-15 UNPLAN新宿 B1
医大通り沿いの地階へ降りる階段を使ってください。
地階のドアを開けすぐ右の分厚いドアが「隠れ家 歓」です。
日曜、定休日 営業時間17時~23時
私が会長を務める商店会の会員が営むインバウンド向けホテルの地下一階。
そのためもあって家賃はとても好意的な価格にしていただいた。
ただ現状の設備はほぼいじることができない。ポジティブに捉えれば設備投資がゼロ。
私の72歳という年齢を鑑みれば、長くて4~5年の営業かと思える。初期投資がほぼかからない。ありがたい。
地階のお店は、50名ほど収容のパーティ会場と、私が請け負う20名ほど収容のBARに別れている。インバウンド向けのホテルだけにパーティ会場の方はほぼ外人。連日大いに賑わう。
一方のBARは、従業員が休憩で使うくらい閑散としている。お店の雰囲気が少し高級そうなのも一因かと思える。ほぼ一ヶ月の模擬営業で、BARの客層はほぼ日本人。それも平均年齢は60歳超え。
よく言えば、落ち着いた大人のBARなのだ。
昨日8日、一昨日9日とけっこうな数のお客様が来店された。
連休前のせいだろうか。追われた。
追われた割りには売上は思うほど上がらなかったが、この賑わいはホッとする。
こんな感じで推移してくれたら良いな、と思う。
どんな飲食店も同じだろうが、お客様から元気をいただく。多ければ多いほど元気をたくさん貰う。
この元気が必要な歳になった。
お盆をはさむ連休、お待ちしています。
帰省ラッシュを他所に、ゆっくり飲みましょう。
都心の静けさを、ゆっくりお話ししましょう。
靱帯損傷
朝7時30分
妻がいつものパートに出かける。
私の部屋のドアを半分開け、
「行ってくるね。」
半分寝床で
「おお、稼いでこいよ!」
自分の夕方からの仕事に、少し後ろめたい思いを感じながら送り出す。
パート先は4~500メートル先にあるスーパーマーケット「マルエツ」
仕事内容はレジや商品の並べ替え。
1時間もしないうちに携帯が鳴る。発信者は妻の名前だ。
(忘れ物か?)
取ったスマホから
「足が動かなくなったの!」
????
「後退の人を頼んだから、その人が来たら、帰る。」
「歩けないの。迎えに来てくれる。」
半分泣きそうな声がスマホの向こうから聞こえてくる。
いつもは簡単に弱音を吐く妻じゃない。それがこの声。
「すぐ行く。救急車は呼ばなくて良いか?」
「そこ(救急車)まではいらない。でも一人では歩けそうもないの。」
バイクで駆けつけた。一人乗りの小型だから妻を乗せられないが、一番早く駆けつけられる方法だ。
妻がいつも立つレジ周りにいない。近くにいた女性に名前を告げ妻の行方を聞いた。
主任と呼ばれる男性がすぐに来た。私をいざない店舗のバックヤード奥の更衣室に連れて行かれる。
存外元気そうだったが、不安と痛みが混ざり合った顔がある。それでも私の顔を見て少し安心した顔に代わる。
脇下に腕を入れ妻を支える。しばらく歩いただけで脇下の汗を感じてきた。無理な力が働いているのだろう。
8時半。
タクシーを探すが、ほぼみんな「予約」の札がフロントウインドーに見える。
15分ほど捜してあきらめる。
ふたたび妻の脇を抱えて帰路につく。500mほどの距離が長い。
「オレより5歳若いんだぞ。」
「もう一度、お前と山に行くんだぞ。」
「尾瀬を歩くぞ。」
励ましてるつもりのセリフが続く。
相生(あいおい)なのか、相老(あいおい)なのか
と、お互いの歳月を確かめている二人がいた。
高齢者講習
免許更新半年前に行う高齢者講習の受講に行った。
講習は武蔵境にある自動車教習所。ヒマを持て余していた妻同伴でなかよく行った。
教習所だけあって免許取得目的の若者で溢れていた。そのなかであきらかに”老”が匂う私たち夫婦姿は、自分たちですら違和感を覚えた。
講習会場は三階。受講者は私を含めて三名。女性1名、男性2名。
男性はけっこう老けていたが、女性はまだ50代後半ほどに見える。受講するくらいだから70歳は過ぎているのだろうが・・・。
一通りの講習と目の検査(動体視力、暗い所の視力)が終わると、今度は実車試験。試験場のコースはさほど大きくない。そこへ10mほどの間隔で右左折のコースが組み込まれている。
1番手は女性。私は最後に回された。
女性の運転、正直怖かった。よくノッキングする。降車後
「初めてで、乗り慣れなくて・・・」
などと言い分けしていたが、親族も一緒に乗りたがらないのではと心配になる。
高齢者講習の実車試験のメインは「段差乗り上げ」
10センチほどのコンクリート盛り土があり、そこをゆっくり乗り上げ、その後にブレーキを踏む試験。アクセルの踏み具合と、アクセル、ブレーキに踏み違いをはかる試験だ。ここでも無用にアクセルを踏む。空ぶかしのエンジン音が車内に響く。
(免許返納すれば良いのに・・・・)
心の声を口に出したくなる。
次の初老(私もだが)の男性はここまでひどくはなかったが、縁石乗り上げが2回。高齢者でなくとも試験中止案件だ。試験官が我慢していたのは、こういう方は案外多いのかな?と想像させた。
私の番になる。
自分で言うのも何だが、三人の中では一番安定の運転。
昔、バイトでタクシーに乗っていたことも功を奏したのかも知れない。
一度も注意を受けることなく、段差乗り上げも無難。試験官は「次、右」「そこを左。」とコースを指示するのみ。
自慢風に書き込んだが、でも、でも、こうやって、講習受けて、”老い”を悟らせてくれるんだろうな、と思う。
お店の閉鎖の時も感じたが、
「なんでもいつかは終わりが来るんだよね。」
ということを教えてもらっている。
鶴瓶チマキ
お店を閉じてしばらくたった昨日。
お昼の11時ころ携帯が鳴った。
発信人は鶴瓶師匠。
(ありゃ、チマキの注文か・・・)
「明日チマキ、持っててぇな。」
相変わらず主語も要点も抜けた語り口。
「師匠、どこですか?」
「いつですか?何時ですか?誰にですか?何個ですか?」
こちらだって負けちゃあいない。
が、店舗のない現在、果たして受けられるかな・・と、質問を続けながら不安も胸に宿る。
「グローブ座やがな。息子や。駿河太郎や。」
「そやな、15時頃でええがな。大丈夫なんか?」
「数は70個やあ。」
「ありがとうございます。頑張ります。」
何カ所か電話やメールを入れ、チマキ、発泡スチロール、蒸し器などの手配を終えた。が、数が60個しか手配できない。
ありゃ・・・、ま、10個少ないだけだから、大丈夫かな・・・
着信履歴を見ながら、折り返しの電話を入れる。
へっ?電話口から聞こえる声は女性の声だ。
あれ?と思う間もなく
「鶴瓶の家内です。何かご用ですか?」
あ・あ・・携帯登録は奥さんの番号、FAXを含めて「鶴瓶師匠」となっている。
「あ、あ、あ、今、師匠から電話をいただきまして、チマキが足りなくて、10個ほど少なくなるというのを、お伝えしようと思って・・・。」
師匠に負けないくらい、主語述語の関係がおかしい会話をしてる・・・。
「あ、ほな、私から主人に伝えますぅ。」
「よろしくお願いします。」
・・・・・・
数分後。
またまた鶴瓶師匠から電話がかかる。
「あんさん、どこに電話してるねん!」
「わての奥さん、今、ハワイにおるんやでぇ。」
闘うこと・・・
前の店の跡・・・歓のことだ。
前の店という表現を、知らずうちに使っている。
テナント募集の公告がネット上で流れている。
家賃は70万円。管理費3万円。
私が借りているときは管理費なんてなかった。
家賃は40万円だった。
それが今では、管理費込みで73万円。消費税を入れると80万円に膨れる。
その店舗跡に張り紙が。
「今秋オープン予定・・・」と。
医大通り商店会の会長をしているくせに、この医大通りでの商売はきつかった。
雇われ店長をしていた当時の三丁目のお店は2階にあって、それでも坪単価2万円ほどだった。20年以上前の話しだ。
20年以上経っても、ここ6丁目は当時のお店より家賃は安かった。
でも、逆に言えば人の流れは三丁目の半分以下。商売としては非常にきつかった。家賃が安くても、この医大通りでの日々の営業努力はかかせなかった。
営業は20年と4ヶ月。
よく頑張ったと思う。近隣の、歓より前にあったお店も大方廃業していった。
家賃を払って、従業員の給与を払って・・・。
今になっても、廃業してよかったのか、と振り返る。
苦しかった経営。家賃の値上げが最後の引き金になったのだが、廃業しない方法が見つけられなかったのかと、今でも悔やむ自分がいる。
72歳という年齢になり、身体のあちこちに軋みを見つけ、後継者がいず、家賃や社員の給与をひねり出すのが精一杯という経営状況が続き、資金のやりくりに腐心する家内を見るにつけ、廃業という選択が一択だったんだと自分を納得させてはいた。
が、やはり悔しい気持ちは残る。
まだ心のどこかに「闘いたい」という気持ちが残っているのだ。
その気持ちの整理がつかずに、夜中、時々目を覚ます。
こうして言葉にすることで、少しでも自分の気持ちを落ち着かせる。
何かをしよう。
何かを始めよう。
悔しさを忘れるために。
「闘う」気持ちをぶつけるために。
新宿荒木町
今日は48回目の結婚記念日。
妻と誘い合わせて食事に向かった。
お目当ては二つあった。
左門町「池田屋」
荒木町「たまる」
二つとも飲食組合メンバーのお店だ。
世間でよく「健保組合」と呼ばれる飲食業保険組合のこと。
私が店長を務めていたころから加入していた組織だ。だから40年ほどお世話になった組合だ。
今日伺った一つのお店「池田屋」は、亡くなった親父さんからのおつきあい。
今は、息子とお母さんの二人でお店を切り盛りしている。
彼のお父さんは私より若かった。だからその息子は、私の息子より若い。
新宿通より青山方向に1本奥まった脇道に店を構える。
どうして屋号が「池田屋」なのかは聞かなかったが、池田屋とかかれた提灯と刀が壁に飾ってあった。明治維新前の「池田屋」に関わったか、こだわったのだろう。
厨房は息子が、ホールは母親がそれぞれ一人できりもりしていた。
カウンターを含めて40席ほどのお店。路面店なのだが、さほど混んでない。
「喫煙可」と書いてある。着席でタバコを吸えて、食事メインのお店は、今時そう多くない。喫煙者にとって貴重なお店とわかる。
一人厨房でメニュー数はさほど多くない。が、手抜きのない料理はしっかりと仕上がっている。
妻も私もお腹いっぱいになった。
お腹いっぱいになった二人は、
(もう食べなくても飲まなくてもいいね・・・)
と暗黙で了解していたが、
「もう一軒もお店の前まで行ってみようか。」
両店主とのつきあいは非常に長いのだが、「たまる」もまだ訪れたことのないお店だった。
荒木町を歩くのは久しぶりだ。
・・・・・
・・・・・
新宿通り沿いの通行人の多さに比べて、かなり閑散としている。
往事の賑わいを知っている私にとって、とても意外だった。
人通りはない。歩きながら見える店内にもお客は見えない。一人二人ほど見受けるお店もあったが、ノーゲストのお店もけっこうあった。
時は夜の7時30分ころ。
荒木町界隈をほぼ全部歩いた。
ビックリするほど閑散としている。
閑散としているが、健気にお店は開けている。街灯も煌々と狭い路地を照らす。
が、人がいない。お客がいない。???
荒木町の雰囲気は以前と変わらない。こだわった店舗、看板が軒を連ねる。
が、人がいない。人が歩いていない。
新宿ゴールデン街だって思いで横丁だって、今は物見珍しの外人で肩がぶつかるほどいっぱいだ。その外人すら見えない。彼らが喜ぶシチュエーションなのに。
過去は、フジテレビや日テレが荒木町の近所にあり、マスコミも芸能人もいっぱいいた。
酔いどれが数件回り、また同じお店に戻ってくるのが日常だった荒木町。
酒タバコの香りと混じって、この町の匂いを作っていた。
町の雰囲気は同じなのだが、ちょっと不健康さが含まれる、あの匂いがない!
え、こんなにも変わるの・・・・
今の荒木町、ちょっとした衝撃だった。
自分の居場所
もうすぐ結婚記念日を迎える
たぶん47回目・・もしかするおt48回目かめかも。
計算したし、妻と数あわせもしたけど、????
ま、あと数年したら金婚式ということだ。
よく持った。
よくぞこんなに長い月日を私に付き合ってくれた。
妻に対する感謝。
そんな妻との年月に「歓」というお店の存在も長い。
私は調理師としての職人歴が長かった。師匠から
「あっちを手伝いに行け。」
「こっちのお店が開店だ。」
と言われあちこちの飲食店に手伝いに行かされた。そういう世界だったし、当時は疑問も抱かなかった。
短い場合は数ヶ月。長いときは数年。中華料理店という共通項はあったけど、店舗を渡り歩いた。
職人歴は40歳頃まで続く。ある時にホールにコンバートされた。支配人という肩書きがついた。
それまでの業務畑が営業畑という風に仕事内容が変わった。
技術だけを磨いていた業務内容が、いかに売るかという内容に変わった。
大きな転機だった。
当初は職人としてお客様に接した。料理はこうあるべきだ、という話しをお客様と交わした。それしか私には出来なかったから。
お客様と私の間に微妙な空気感が広がる。会話が続かないシラケた空気感だ。
これは、ちょっと、マズいかな・・・。
おそらくお客様の声を汲み取るのではなく、私の調理感を語る一方通行だったと今では理解できる。
お客様の声を少しでも拾おうと、私のスタンスを変えた。
主な話し内容は料理やお酒の味やお店に関することが多かったのだが、勤めていると料理に対する工夫はできたが、他店に関する情報は私は極端に少なかった。
休みの日に、お客様の奨めたり褒めたりされたお店通いが始まる。
私には金のかかる子供たちが3人もいた時期だった。時間的にも金銭的にもすべてを回る余裕はなかった。
が、数少ない試食に行ったお店の話しを教えてくれたお客様に語った。
ここから急速にお客様との距離感が縮まる。
お客様は次々と新しいお店や料理の情報を私に伝えてくれた。時にそのお店に連れて行ってくれた。
私に新しい世界を、未知の世界を見せてくれた。
私のなかの知識や見識が大きく膨らんでいった。嬉しかったし、楽しかった。
喜びは知見の吸収でもあったが、お客様との垣根がなくなり、一歩進んだ関係に構築されていくのが体感できた。
この方々が結果的に「歓」というお店を作ってくださった。
三月に閉店した。21年4ヶ月。
私のなかでの喪失感は大きい。
20年以上の歳月は 私もお客様も老いた。必然的に来店頻度も少なくなったが、お店がなくなることで、お客様との会える場もなくなった。
形あるものはいつか無くなる・・・という万物の条理とわかっていても、この喪失感は大きい。
それに、今、悩まされている。
覆水盆に返らず。
もう二度と戻ってこないお店やお客様との「場」が・・・・。
「場」をなくさないで済む方法はなかったのか、今でも悔やむ。
お客様の場でもあったが、自分の居場所でもあったのだとの悔やみ。
閉店することで、その居場所を従業員からも奪ってしまった。
何でもいつかはなくなる・・・
でも、でも、もっと他の方法は・・残せる方法は・・・なかったのか。
今さらだが、社長の功罪は大きい。
毎日妻と二人だけの世界に身を置いて、この妻は私と過ごした年月をどう受け止めているのだろうか。
ふと、数年後の金婚50周年を思い、考えにふける。
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