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古(いにしえ)の友人

私の誕生日は10月22日。
ある友人の誕生日はちょうど1ヶ月後の11月22日。
さほど往来のある友人ではなかったのだが、覚えやすい誕生日で忘れずにいた。

上京して間もなく千葉のマンション建設現場で住み込みでアルバイトしていた時に出会った友人だ。
私が20歳になるかどうかの時期だったと覚えている。50年以上前の話だ。

新規のアルバイトは毎日のように飯場(工事現場の作業員用の寄宿舎 )に4~5名がやってきていた。そしておそらく同じ人数が入れ替わるように去って行っていた。
私は苦とは感じなかったが、けっこう厳しい職種だったのだろう。入れ替わりの激しいアルバイトだった。
この職場にくだんの友人より一日早く就いた。
一日仕事が終わり、飯場に帰り、風呂を浴び、コタツに収まっていたときに、その友人は
「明日からお世話になります。」
と丁寧に挨拶をして飯場に入ってきた。180センチほどの長身でスラッとした体系の好青年だった。
一日の長がある私が偉そうに
「ま、ゆっくりしなよ。そんなに気を遣うところじゃないから・・」

飯場は30人ほどが寝泊まりできる大きな部屋だった。社員は個室をあてがわれていたが、アルバイトはまとめて雑魚寝だった。ほぼ若い男たちで埋め尽くされた広い飯場はコタツや布団を数組片付ければ、相撲が出来るくらいの広さは確保できた。慣れない体力仕事で疲れ切っていたが、就寝まで チンチロリンや腕相撲など思い思いの時間つぶしをしていた。

彼は今(コン)と名乗った。
秋田県能代市出身の、私より1歳年上だ。
能代高校出身で部活はハンドボールをやっていた。日本一になったとも聞いた。
高校で私はサッカーをやっていた。勢いのあるサッカー部だったが、県大会では鹿児島実業や鹿児島商業という強豪校にいつも跳ね返され敗退していた。
当然彼の高校も秋田の県大会で優勝し、全国大会で勝ち抜いての栄冠だったのだろう。
素直に(すごい奴と会えたなあ)と感嘆した。
飯場で相撲を取っても私はコロコロ負けた。腕力も足腰も強いのはわかった。

翌日、仕事である建設現場に向かった。
千葉市稲毛にある13階建てのマンションだった。仕事内容は現場用品である鉄骨だとかコンクリートだとかを運ぶ仕事だった。
私は高いところはまったく問題ないのだが、今(コン)は高所恐怖症だった。
建設途中の13階建てマンション屋上は手すりがなかった。荷を担いだ私はヒョコヒョコ歩くのだが、彼は広い屋上の真ん中ですら這いつくばるようにしか歩けない。
昨夜相撲で負けた私が這いつくばっている彼に、立ったまま言い放った。
「おい、コン、立てよ。立ってみろよ。」
真っ青な顔のコンは
「梅ちゃん、ダメだよ。動けないよ。」
あんな強かった奴がと、めっちゃ面白かった。

そんな彼とは鹿児島の私の実家(当時はラーメン店を営んでいた。)にも来てくれた。誰からも好かれた彼は、実家でアルバイトしていた女子高校生にも好意を寄せられ、私の知らぬところで逢い引きしたという逸話もある。

東京に戻ってきたコンはボクシング、キックボクシングの道を選んだ。
その後結婚を経て横須賀に移り、今は個人タクシーの運転手になっている。
異色の人生を送った。

誕生日に彼に電話した。
声は元気だったが、ガンの闘病生活をおくっており、余命宣告を受けたと受話器を通して話してくれた。
先日なくなった弟のことが頭をよぎり、言葉を失う。
「余命っていつまでだよ?」
「医者は1月頃と言ってる。」
「お前の声、元気じゃないか。」
「うん、そうなんだけどね。ま、どうなるか、わかんないね。」
「生きてるうちに一回こっちに来いよ。」
「うーん、それはわからないね。」

50年来の友人だ。
何とか今年中に時間を作って会いに行きたいな・・・・。




連れあい

義母が亡くなった。

山形の、妻の両親は同い年で96歳だ。
96歳という年齢を考えると、今のうちに会っとこうかな、と思い立ち今年5月の連休に妻と山形県米沢市近くの実家に帰った。
6月に亡くなった弟のことが頭にあったのかも知れない。
今思い返すと絶妙なタイミングだった。

5月ゴールデンウイーク。
米沢市近く、ダリア園で有名な川西町に実家はある。
実家に着いた。おそらく米寿の御祝いであった時以来かな・・覚えていないくらい昔になる。
親父は足下が多少もたつく感じはしたが、家の中を自在に歩き回る。近所だがスーパーにも一人で買い物に行く。96歳とは思えぬくらい身体は達者だ。
義母は施設に入居している。
家には70歳になる義兄を一緒に住む。男所帯だ。が、思いのほか家中は片付いている。大工だったせいだろうか。

帰省していた間に義母がお世話になっている施設にも見舞いに行った。おそらくどこにでもある施設と同じく高齢者が多い。私も70過ぎているのだが、おそらく若者に見えることだろう。そして若い訪問客は、高齢者の物珍しそうな視線を浴びた。訪問者はさほど多くはないのだろう。
部屋は2畳ほどの一人部屋で、義母はベッドに寝たきり状態だった。
親父が
「元気か?元気でいるか?」みたいな意味合いを山形なまりで話しかける。応える義母の声も意味はよく聞き取れない。
「綾子が来たぞ。」
寝たきりだが言葉の意味はしっかり聞き取っている。おもむろに私たちを見る。娘のことはすぐに認識した。そしてその隣に立つ私に視線が移る。
すぐに反応した。
言葉こそ聞き取れないが、私の名前を口元に運ぶ。
(あ、頭はしっかりしている。)
女性らしい優しさを含みながら、目力は私をしっかり見ている。
肌あいもしっとりとして艶がある。
よかった。山形にもどってきて良かった、と義母の顔をみてうれしくなった。
施設にいたのは10分程度だったろうか。
それが最後になった。

義母の葬儀に私は行けなかった。代わりに子供たちが孫を連れて山形まで行ってくれた。
義母のいなくなった親父を思う。
施設にあって、普通に会える距離でもなく、時間も限定されていたのだろうが、それでも「いる」という存在だけで親父の生き甲斐になっていたと思う。
「いる」という存在がなくなった時、・・・・・。
気落ちするなよ、と心で思うものの、96歳という親父の年齢を考慮すると、良い方向での思いは馳せない。

6月に「いなくなった」弟とは、せいぜい年に数回ほど、ふた月に一度ほどしか会ってなかった。それでも弟ロスは私の中で大きかった。今でもけっこう引きずっている。これが連れあいだったらと思うと、自分を保てる自信がない。
「いる」がなくなった親父を思うと、遠くにいても胸が締め付けられる。



訃報が続く

何気ないFacebookの誕生日投稿に返信があった。
誕生日者の次男の嫁さんからだった。
義父は去る8月14日に亡くなりました。生前はお世話になりました。という返信だった。
享年88歳。往生といってもおかしくない年齢なのだが、私の心にポッカリと大きな穴ができたのが明確にわかった。
F先生。
思い出の多い先生だった。どうしてこんな私に、と思えるほど私は先生から大きな厚意をたくさんいただいた。
生前の先生から伺ったお話しから波瀾万丈の人生だったことが知れた。苦労も多かっただろうが、それを楽しむ度量の大きさを感じさせる先生だった。

大きな総合病院を退任された後、富士吉田市の病院院長として赴任された。この先生の元へ友人と二人で新宿から自転車で遊びに行ったことがあった。
片道120km。八王子、相模原を経由する同志道を走った。ひたすら登り坂が続く道程だった。乗った自転車はマウンテンバイク。タイヤ幅が大きく、足への負荷は大きかった。道志村を過ぎた当たりからスピードは極端に落ちた。
行ったのは8月と夏の盛りだったが、陽の届かない山道は夕方にもなると真っ暗になった。
途中、この先生が4駆のSUVで迎えに来てくれた。暗い登り道を自転車の後ろから煌々と照らしてくれる。ホントにありがたかった。片側1車線の同志道。私たちの自転車のスピードに合わせてSUVはゆっくりと走る。だが、田舎道とはいえ、このスピードで1車線道路は混雑が始まった。SUV後方の連なる車からはクラクションでせかされる。が、このF先生、頑として道を譲らない。
ありがたいと思いつつ、後方の車列には恐縮した。
時々車を止め後方の車に追い越させる。が、先生が車を止めるのは私たちの休息が主目的だ。
そうやって先生のアジトである忍野村のマンションに着く。マンションの大きな窓の正面は富士山が鎮座している。朝起きてあらためて富士山を拝むと、窓に映る富士山を中心に両側に大きなスピーカーが置いてある。先生はお経の声明をステレオで聞いているんだそう。
はあ!異世界の人種だなあ、先生は・・・

毎年、8月の第1週に富士吉田市の浅間神社で薪能が開かれる。そこにほぼ毎年招待された。招待者は30名ほどにも膨れたことがあった。
能が終わり簡単な食事の後、それぞれあてがわれたコテージに数名ずつ宿泊する。私が泊まるコテージは、私以外全員東大卒。
(高卒の私がなんでここにいるの?)
でも、コテージの中で車座になって話すみんなの話はとてつもなく面白かった。
当時佐野市の市民病院の院長になっていた先生が
「病院前の敷地は提供するから、ここにバスターミナル作れないかな?」
「ああ、それはおもしろいね。企画を投げてみるよ。」
呼応した方は全国の駅や駅ビルを作る会社の社長。
傍で聞きながら
ああ、こうやって日本(国)が動いていくのか・・・と、半酔いの私は、先生の人脈の多さ深さに感嘆していた。

この先生を通じて私の、あり得ない人脈も広がった。
ことあるたびにお店に寄ってくれた。それは奥様だったり、家族だったり、東大ボート部だったり、医学部だったり、山岳部だったり、様々な人たちが歓ファンの店を訪れてくれた。

訃報を聞いたあと、そういう感謝よりも寂しさの方が今は勝っている。
目がうるんできた・・・・。
また一人大切な方がまわりからいなくなった・・・・。


昭和生まれの方に聞きます

「昭和生まれの方に聞きます。」
というタイトルで、昔は先生が生徒を殴っていたと言う野聞きましたが、本当ですか?というスレッドがネットで流れていた。

うんうん、普通に殴られていた。
小学校5年、6年は同じ担任で名前は長崎浩という先生だった。
その先生が自分の名前をもじって、
「俺の名前はナガサキヒロシだ。原爆と一緒で一年に2回爆弾を落とすぞ。」と私たち生徒を脅かしていた。なぜだかその二回の爆弾は私が喰らった。私は落ちつきがなく、言いつけを守らなかった生徒だったようだ。

暴力というほどではなかったが、子供同士でも師弟関係でも親子関係でも普通に殴る蹴るというのは当たり前にあった。
今は問題になるんだろうな。
私の父は家庭訪問で来た先生に向かって
「殺されちゃ困るが、骨の1本2本折っても構わないので思いっきり叱ってくれ。」
と、私が同席している前で言い放った。
そんな時代だった。

鹿児島特有だったのか、私の周りだけだったのか、今となっては覚えが不確かだが、1対1の喧嘩は「やれ!」と推奨(?)されていた。

「虐め」というくくりで暴力は今となっては否定的だが、思い返すと”殴る””蹴る”で私は鍛えられたと思う。多少の耐性も出来た。
悔しくて反発心がバネになってのびた(成長した)面もあったと思う。

暴力の全否定には、ちょっと疑問を感じている私、今の時代にはあってないのかもしれない。そういう意味では過去の人になっている・・・・・。

仕事

歳のせいか、起床したときなど身体の重いときが時々訪れる。
その時にはいっしょに頭も重くなる事が多い。
72歳(まだ71歳だけどね・・あと1ヶ月少々・・)だから、あちこちがポンコツになる。
遅くとも8時過ぎにはお店に入り、電灯やガスに点灯点火し、食材を出し、とチンタラチンタラ開店準備を始める。身体を動かし始めても身体はなかなか目を覚めてくれない。準備がある程度終わったらイスに座って一息つくのだが、身体が重いときにはそのまま仮眠状態になる。国会議員の真似して居眠りだ。
我ながら情けないのだが、エンジンキーを回してもエンジンはストンストンと駆動に繋がらない。もちろんハレーダビットソンばりのドッドッドッというエンジン音を立ててるつもりなのだ。
ここまで来ると居眠り姿はそのままに開き直って 熟睡モード切り替える。
ほんの5分程度なのだが、身体はスーッと軽くなる。

お昼近くになった。ランチはピークタイムを迎える。
ホールからの伝票を読み上げる声に呼応して、頭も身体も戦闘モードに入る。
先ほどまでの鈍重さはどこかに吹っ飛んで、パケッタパケッタと頭も身体もフル回転が始まった。

こんな時ほど仕事のあることに心から感謝する。
仕事が無理繰り身体や頭を動かさせてくれる。
ありがたい。ホントにありがたい。
 


吉行和子さん逝く

吉行さんが通っていた鍼灸の先生から電話があった。
8時。お店についてすぐのことだった。

その先生に連れられて、私の前勤務先のお店にも、今の歓ファンにも、何度も足を運んでいただいた。
吉行さんからみで「はなまるマーケット」に2回、「金スマ」に1回歓ファンを出していただいた。
後楽園店にもおいでいただいた。
吉行さんとジャズピアニストの山下洋輔らが並んで写っている写真がお店にも置いてある。
とても贔屓にしていただいた。
ありがとうございます。ホントにありがとうございます。

享年90歳と聞いた。
鍼灸の先生から電話をいただいてまもなく、吉行さんの訃報のネットニュースが流れてきた。

身近にいた人たちがまた一人また一人といなくなっていく。
私の年齢を考えると、こういう訃報がまだ続くのだろうけど、、、、、。
寂しいし、私がまだ残って良いのかしらと、メランコリックな気持ちにさせられる。


訃報が続く

従兄弟の訃報が郷里に残る弟より入る。
今朝方亡くなった・・・と。

先日亡くなった末弟と同い年だった。享年67歳。
母の11人兄弟の、同じく末弟だった弟(叔父)の息子。
叔父は鹿児島加治木で寿司屋を営んでいた。その叔父の導きで父は蕎麦屋を近所でオープンさせた。私がまだ10歳の頃。戦禍の癒えぬ日本中がまだまだ貧乏で、蕎麦の出前を学校帰りに当たり前のようにやらされた。

従兄弟は弟と加治木町で同じ小中高を過ごす。
6月弟の訃報で、久しぶりにこの従兄弟に電話をかけた。
3週間ほど前のこと。
従兄弟の電話番号は健在だった。
声音(こわね)も話し方のくせも昔のままだった。
私すら聞き取れない薩摩弁がペラペラ出てくる。
口調の悪態はそのままだが、年相応の弱音があちこちに出てくる。
聞けば、弟と同じガンの余命宣告を受けたそうな。本人曰く、今年いっぱいが山と。
従兄弟は私たち兄弟と同じく麻雀大好きで、鹿児島にいる時分は幾度となく卓を囲んだ。メンバーは6~7名ほどいて、その日の都合で替わったが、私や兄弟、従兄弟はほぼ固定メンバーだった。
そこへ亡くなった末弟が帰ってくると、末弟を交えつつ牌を打った。
畳敷きの上にコタツ台、綠のゴムマットを敷き、手積み麻雀。
タバコをくゆらせながら、それぞれが盲パイする姿が鮮明に蘇ってくる。

今年、弟が逝き、その弟を追うように従兄弟が逝く・・・
なんだかなあ・・・・
寂しいなあ・・・
向こうで麻雀卓を用意してるかな・・・
でも、もう手積み麻雀は勘弁して貰いたいな・・・

アヤコ、最安値

家内との時間はほぼ日曜日だけなのだが、このところ日曜のたびにいろいろな用事が重なり、思うように夫婦の時間が作れなかった。
夕方4時着の 歌舞伎座までのチマキ配達が あり、それが終了後に家内と食事に向かった。途中花園神社での盆踊りがあり、私の知人が多数参加していたこともあり、顔見せ程度の挨拶を終え、新宿サブナードの飲食街に向かった。

食事をしたのは鶏料理の専門店。
家内はビール、私はハイボールを頼み、簡単な食事をオーダーした。
私は5色をあしらった意味合いの五色丼と、家内は親子丼を頼んだ。
時間は夜の8時を回っていたが、店内は盛況だ。
場所がらなのだろうが、私のお店もこのくらい混めば資金繰りも楽なんだろうな・・・と羨ましく感じつつ、妻との時間を楽しんだ。

お互いのグラスと食事をすませた食器が空になった頃合いを見計らってお勘定を店員に頼んだ。
さほどの間を置かずに店員が勘定表を持ってきた。
その勘定表を見ながら家内が
「ねえ、アヤコって見えない?」
ん?
その勘定表を覗くと確かに『アヤコ』と家内の名前に見えなくもない。
そしてその「アヤコ」の欄の値段が980円。

「アヤコ、安ッ!、アヤコが980円で買える!」

カムチャッカ地震

 時々食事に訪れるイタリアンのお店がある。
なかなか美味しいお店だし、落ち着けるお店だ。
よく利用する。
このお店のオススメは、リゾット、パングラタンなどがある。
私はイケメンだと思っているのだが、主人は頑固な職人風。
料理はけっこうこだわる。でも厨房は一人だから料理の種類には限界がある。
種類は少ないのだが、オリジナルがけっこうある。
フォカッチャもその一つだ。
焼きパンだと思うのだが、しっとりと仕上がっている。
妻も一緒にこの店に行くときにはフォカッチャを必ず注文する。私がアヒージョが好きで注文すると家内が
「アヒージョの油につけて食べるパンも注文して。」
という具合。


カムチャッカ地震がおきた。
津波のニュースが日がな流れる。
家内にとって「震源がロシアのカムチャッカ」とテレビから流れても、どうして津波が日本に押し寄せるか理解できないらしい。
地図上の、日本に覆い被さるようにかかるカムチャッカ半島がわからないせいか?
と問いただすと、ロシアは日本の西にあり、なぜ太平洋側に津波警報がくるのかが理解しずらかったらしい。

妻「カムチャッカって言葉、ほら、パンに似てるじゃない。美味しいパンがあるの?」
はあ?
「いつも行くイタリアンで食べるじゃない。何と言ったっけ?」
「カムチャッカって言わなかった?」
はあ?・・・・・
もしかしてフォカッチャのこと?

家内にとってはパンなのだ。好きなくせにそのフォカッチャの名は覚えてなかったらしい。
イタリアンだよ。それがなんでロシアのカムチャッカなんだよ・・・