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その昔のサッカー小僧

その昔、私はサッカー小僧だった。
その昔、私はゴールキーパーだった。
きっかけは単純だった。

中学三年生の時期クラスマッチがあった。
動き回ることは好きだったが、運動神経が秀でたわけではなかった。
むしろ足は遅かった。
その足の遅かった私に、サッカーのクラスマッチに人数あわせでゴールキーパーが回ってきた。
誰かがポーンと蹴ったボールに、大人数の選手が群がって走るという、とてもじゃないが、スポーツと呼べる代物でもなかった。

ゲーム中、ファールがあり、ペナルティキック(PK)になった。
さあ、キッカーとゴールキーパーの1対1の勝負だ。
蹴った!
ボールは右に飛ぶ!
私はボールめがけて飛んだ。
飛んだつもりだった。
飛んだつもりの身体はポテッとゴールラインに添って横たわった。
横たわった身体から伸びた手の先にボールが当たった。
ボールはてんてんと転がり、ゴールを外れた。

たったこれだけのことで私はサッカー小僧になった。
たったこれだけのことで私はゴールキーパーになった。

やがて中学を卒業し、私は高校に入る。
真っ先に向かったのが、大きな楠の下でゴールに向かって交互にシュート練習しているサッカー部。
高校三年間のサッカー生活が始まった。

華々しいはずだった部活は、グランド周りにあった土手を上がるウサギ跳びから始まった。数ヶ月続けることで足腰は強くなった。練習は次段階に入った。
キーパーポジションにつき、3m程前から蹴られたボールをキャッチすることを強いられる。ボールが顔面めがけて飛んでくる。飛んでくると分かっていても、手が顔を塞ぐのがボールのスピードに追いつかない。
ボールが来ることが分かっていても、顔面でもろにボールを受けた。「火が出る様」という形容詞がピッタリくるくらい顔全体が熱くなった。これも数ヶ月。
半年ほど経った時に同じチームの紅白戦に出られる様になった。
でも正ゴールキーパーへはまだまだ遠かった。
中学からバレーボールをやっていた同級生がいた。バレーのレシーブで鍛えたセービングは、傍らで見ていても鮮やかだった。
(ははー、こいつがいる間はオレは正キーパーは無理だ。)
と想わせるくらい、反射神経は鋭かった。ただこの同級生は練習が嫌いだった。華々しい場が似合ったいる奴だったが、練習はサボってばかりいた。
だから、練習の間は私が正ゴールキーパーだった。
・・・・・
公式の試合になると、こいつは出てきた。出てきてレギュラーとして試合に臨んだ。公式戦では私は常にサブだった。
悔しかったはずだったのだが、不思議と恨んだことはなかった。それほど彼のセービングの反応は群れを抜いていた。

新宿にプロサッカーチームが発足。
チーム名はクリアソン新宿といい、国内の4部リーグJFLに属している。

クリアソン新宿にはゴールキーパーが三人いる。
その中の一人と懇意にしている。
良い奴だ。
ナイスガイだ。
浦和レッズでキーパーを務めていたこともある。
が、たぶん、その時も西川というのが正ゴールキーパーだった。
この彼もサブでいた時間が長い。
他のチームであれば正でいてもおかしくない逸材のはずなのだ。
私とは比較にもならないほどレベルがかなり違うが、サブでいることの心境を、サッカー小僧の、端くれの一人として、一度聞いてみたい。
















気がつけば高齢店になっていた

急に忙しくなってきた。
ここ一週間ほどのことだ。
10月前半は昼夜ともにヒマな日が続いていた。
前年よりも売上は伸びている。が、前年はコロナの最悪の年であり参考比較するような年ではない。
今年の5月以降協力金も支給なくなり、それまでにプールしていた資金で賄わなければならない状態が続いていた。資金はみるみる間に枯渇していく。

廃業が視野の片隅に入る。
生き延びるために、新製品の開発をすすめる。
私の性格が元来素直でないためか、普通のお店がおこなった、例えば従業員の解雇、価格の引き下げ、店舗の休業などの処置は取らなかった。
その分苦しさが増えた。追い詰められていくのをヒシヒシと感じる。

新製品にかかる費用も含めて、融資を申し込んだ。
ふだんだったら融資は厳しいのだが、コロナ特別枠があり、これを頼った。
申込金額は1,000万円。結果は減額されて300万円。
普通の年だったらこの金額で問題ない。それなりに手を打てた。が、これだけ売上が落ち込み、回復見込みも数年先という状況下での300万円は店舗の敗戦処理にかかる費用としか思えない。
300万円という額は延命処置にはなっても、回復処理にはほど遠い金額なのだ。

最悪を覚悟した。
が、100%諦めたわけではなかった。
この情況下でも会社の助かる道を探す。
新製品はほぼできあがっていた。
ここからどう販売していくか、どう採算ベースに乗せるか、その時間と資金はどのくらい残っているのかを計算しつつ、今やれることを探す。
この気持ちが私にある間は、従業員もついてくる。
私が諦めるわけには行かないのだ。

そんな毎日を送っているなか、今週に入り、急に忙しい日々が増えた。
一桁台の売上が二桁になった。
お、お、お、と私も店内を駆け回って仕事する羽目(?)になる。

(もしかすると急浮上か!)
と淡い期待が膨らんでくる。
・・・・・
満席近くになった客席を見回し、あることに気がつく。
お客様のほとんどが高齢者なのだ。
近隣のお店にも時々偵察に行くことがある。
その近隣のお店のお客に比べて、歓のお客様はダントツ高齢者が多い。

(そっか、これまで歓に来ることができなかったのは、病気が、コロナが怖くて来られなかったのか・・・)

少し複雑な思いにかられる。
お店の成長(高齢化)やスタッフの成長(高齢化)とともにお客様もいっしょに成長していた。
なるほど・・・・。
歓が苦しんでいる理由が、日本の成長(高齢化)にあったのか。

そして今日、私は69歳の誕生日を迎えた。

来た!来た!来たーぁ!

鶴瓶さんからチマキが来た!
郁恵ちゃんからチマキが来た!
他にもう一件、チマキが来た!
今日一日で三件の受注だ。
先日は阿部寛さんから、自ら出演する舞台スタッフへの注文もいただいた。

ほとんどが舞台への差入れだ。
あちこちで舞台上演が活発になってきたのだ。
活発になってきたというのは、お客様の観劇者がもどってきたからだ。

ヒマなこともあって、お店の予約スケジュールはスッカスカ!
でも私のスケジュールはけっこう詰まっている。
お店で何もやることないから、商店会やいろいろな会合へ積極的に参加していた。ヒマなお店にいることに居たたまれないからなのだが、もちろん忙しくなったなら、お店優先だぁ!

もうちょっと、もうちょっと・・・と何度も何度も気持ちを奮い立たせていた。
今度こそ夜明けの始まりであって欲しい・・。
家賃の支払いや給料の支払い、業者への支払い、、ドキドキするのはもう終わりにして欲しい。

私の心臓、強くないんだぞ!
私の心臓、毛だって生えてないんだぞ!
見たことないけど・・・・。







天空の城ラピュタ

空飛ぶ車の開発が盛んになっている記事を見つけた。

誰も言わない「空飛ぶクルマ」が必要な本当の理由 (msn.com)

おそらく5年もしないうちに実用化されるのではと感じている。
試験に使われているのは、2~4名用のものがほとんどだが、車と同様バスのような数十人乗るのも出てくるのだろうと想像できる。そうなると飛行機と違いはどういうふうになるのだろう?

もっともっと歳月が経つと、30年とか50年になると、空中都市すらもできるのではと想像は膨らむ。仕組みは現在の2~3名用を車体を大きくして大きな浮力エンジンを積むだけだろうし、技術的には可能かと思う。
雲の上だったら、光が雲に遮られることもないから、安定して太陽光発電ができるだろうし、水も眼下に浮かぶ雲を採取して水として汲み取れば、これまたOK。
太陽光も、太陽光のエネルギー変換率も大幅に上がるだろうし(ここらへんがクリアできないと空中都市構想もできないが・・)
で、この空中都市に住む人々は、チョー裕福な人たちから入居(?)することになるのだろう。
時代が変わっても人間の上下関係、差別はなくならない。
(私は差別を否定していない。大きなうねりはこういう差別の反発から生まれると考えているので。)
貧民は地上で暮らし、富裕層はそのうごめく様を空から見下ろす。
昔々の、城から城下町を見下ろす構図はまったく同じだ。

はるか未来を想うに、外国に一度もいった経験ない人もいる様に、空の上を見上げる人たちのなかには、一度も空中都市に登ったことのない人たちも多いだろう。その人たちにとって、空中都市は神様の住む天国だと思うだろうし、空中都市の住人は、地上民に 自分たちを神様と同様に想わせる政策をほどこす・・・。

そしてある時、貧民の誰かを選び、空中都市に招待する。富裕層にとって、空中都市を初めて見る貧民の驚愕ぶりは娯楽のひとつになる。
貧民は時間をおいて地上に戻り、空中都市の贅沢な様を仲間に知らせ、かくして「天空の空のラピュタ」という新しい神話が生まれる。

大型ドローンである「空飛ぶ車」から、ここまで思いを馳せる私は、
夢想家?、それともほら吹き?


犬も歩けば棒に当たる

医大通りの近く富久町にある東洋美術学校が商店会主催「音楽フェスティバル」へ参加してくれる。
10月15日、16日、学園祭があり、そこで出品した物をひっさげての参加だ。

そもそも江戸野菜のひとつで新宿原産の「内藤トウガラシ」を歓ファンの新商品に混入できないか、というスタートから始まった。
この内藤トウガラシを西新宿にある東京調理師専門学校が栽培しており、コンタクト取った。その話しの流れで歓ファンの新製品のパッケージ製作、そして医大通りブランドや音フェスの話しになり、デザイン作りのために東洋美術学校を紹介して貰う。

美術学校はイラスト、模型、オブジェ、ウェブデザイン、壁画、写真、いろいろな分野の専門に分かれて生徒に教えている。
これは、来年以降、出店のデザイン、ポスターデザイン、ステージのバックヤード、いろいろなとこで手伝って貰えそう。 そしてそれぞれの店舗の飾り付けなどの相談も可能そうだ。
学校側も学校近くにある商店会や地域と繋がることに前向きだし。

そのなかのオマケで、この美術学校から定期的な弁当の受注提案があった。月末締めの請求書払い、要は「ツケ」なのだが、ありがたし。

つくづく動いてみるもんだ、と感じた次第。
「犬も歩けば棒に当たる」
のお話しでした。

鳥せん

おそらく創業40年は続いていた焼き鳥屋さん。歓のとなりにある。
ご夫婦で営んでいたお店だ。

私が新宿で美味しいと思っている焼き鳥屋さんは2軒ある。
しばらくお邪魔してないが、三丁目にある「鳥田村」。そしてこの「鳥せん」

串に刺してある鳥は大きめだ。
鶏肉にこだわっている。炭は備長炭にこだわる。他の、例えば銀杏なども仕入れ先は変えない。
こだわりの大きいお店だ。
そしえ何より店主。店主と言うより「頑固親父」という言葉がピッタリくる店主であり奥さんだった。
気に食わないお客様は遠慮無くお断りする。
隣で商売する私にも、間の路地で酔っ払いが吐いたあとを
「お前のとこの客が吐いたんだろうが!」
と、怒鳴り込んできたこともあった。

お客様の評価も二分するのだが、根強い顧客は多い。

夕方からの営業だが、11時頃には出勤、仕込みに入る。
毎日のパターンが出来上がっている。
その鳥せんもコロナ禍で苦しんでいた。宴会は少なくなり、二階の宴会場はほぼ使うことなく2年が過ぎた。

今年春先から、親父の背中の曲がりが目につく様になった。腰を痛めているそうだ。普通でさえ笑顔の少なかった親父に、苦しそうな表情が増えてきた。

9月。
日付を添えた「お休みします」の張り紙が張り出される。
その日付が、延長延長で書き換えられた。
時折お店にくる奥さんから、親父さんが
「腰の痛みがすごくて立っていられない。」
という。
閉店という決断は、相当悩んだと思う。
ここにも「歳月」という流れに抗うか、流れに身を任せるか・・。

そして今日、張り紙が
「閉店します。長い間ありがとうございます。」
簡潔な文章の張り紙が出されていた。

お疲れ様でした。












鶴瓶チマキ

渋谷のLINEキューブにチマキ配達に行く。
上白石萌歌さんへ鶴瓶さんからの差入れだ。
向かう途中から雨がひどくなってきた。
台風だ。
カッパの上から雨が内側にしみてくる。

LINEキューブは、渋谷区役所とNHKにはさまれた感じのところにあるイベント会場だ。この雨の中、人が並んでいる。並んでいるのは10代から20代の若者ばかりだ。人気の程が窺える。
会場を取り仕切っている、スーツ姿の管理か警備担当が10名ほど歩き回っている。
チマキを入れた発泡スチロールに、楽屋見舞い、笑福亭鶴瓶ののし紙が貼ってあり、警備担当に
「どちらにお持ちすれば良いでしょうか?」
説明が面倒くさく、箱を見せる。発泡の箱ののし紙には相手の名前と鶴瓶師匠の顔が印刷してある。即座に
「こちらへどうぞ。」
楽屋口へ引率して貰う。

依頼があった時に届け出先の名前、顔は一応調べる。
だが、かみしらいしもか・・知らないし、たぶん覚えられない。
私には 、この年代の顔はどれもこれもいっしょにしか見えない。
鶴瓶さん、よくこの世代のタレントさんの顔や名前を覚えられるな、と感心する。
案内されて楽屋口にいたマネージャーらしき人にお渡しする。
聞かされているのだろう、箱の鶴瓶さんの写真を見て、担当の顔がほころぶ。チマキだというのが分かった顔であり、たぶん私にも回ってくる、といった顔だ。

LINEキューブもそうだが、原宿から渋谷に掛けてのこの界隈、めちゃめちゃ賑わっている。人、人、人、人・・・・。
「今日、台風だよ。最大級のという形容詞がついた台風だよ。」
「早く帰りな。」
と心の中でさけぶ。

若かりしころの私も雨風関係なく遊んでたっけ。





家出

私は18歳頃に3回ほど家出をしている。
高校時代に2回。
鹿児島県姶良郡にあった公立高校だったが、校区外からの入学も多くアパートを借りている生徒も少なからずいた。
1回目の家出は、その友人宅に転がり込んだ。その友人は、今思い出せば、決して素性の良い学生ではなかったが、犯罪をおこすほどの「悪」ではなかった。
そこから学校も通った。

家出の理由は親父への反発だった。大学への進学を控える三年生という立場にあって、親父から金銭的な負担を理由に怒られるのが嫌だった。
そして当時の高校の校風も進学一辺倒。学校の権威なのかプライドなのか、進学のための学習をおしつけられていた。
そういう環境のなか、友人を含め、同級生たちは実によく勉強していた。
そういう同級生を私は素直に感心していたし、尊敬もしていた。
当時は鹿児島特有の立身出世的な、「末は学者か大臣か・・」的な身を立てる雰囲気が、家の中でも学校のなかでも感じていた。
それがとてつもなく嫌だった。

勉強は嫌いではなかった。だが押しつけられる勉強は何かの理由をつけて逃げていた記憶がある。
後日談だが、数年後の同窓会で再会した同級生のほとんどが、小中高の教職を選んでいた。
(えっ、先生になるためにあんなに猛勉強していたの?)
教職をけなしているつもりじゃけっしてないのだが、あの猛勉強ぶりは、もっともっと大きな大志を持っているからこその勉強だと思っていた。そのくらい同級生たちは寸暇を惜しんで勉強していた。

ま、何はともあれ、今風で言うと相当ストレスがたまっていたのだろうと思う。
反抗期だったのかも知れない。
些細な口実で親父と喧嘩し、オロオロする母親を尻目に家を飛び出した。

2回目は受験間近の1月。当時は東京の大学に進学するつもりで準備を進めていた。原因はまたまた些細なことだった。
言い争いのなかで親父が
「経済的援助を断ち切るぞ。」
と脅かしてきたのに買い言葉で
「ああいいよ。かまわないよ。」
次の日には大阪へ飛んでいた。

大阪では高校の同級生の叔父さんが印刷会社を経営しており、そこに飛び込んだ。血気盛んだったし、何とでもなる、という捨て身が難なくできた。
今、思い返して見ると、思慮の足りない、世間を見る目すらない馬鹿な小僧だったと思う。
一ヶ月後、印刷会社の社長が連絡して親父が迎えが来た。それで二回目の家出は終わった。
帰ってきた数週間後に卒業式があった。クラスごとの卒業証書を代表者が受け取る。私はクラスの委員長だった。本来は私が卒業証書を受け取りに壇上に上がるはずだったのだが、式の段取りをする時、私は家出の真っ最中。
ということで壇上に上がったのは副委員長だった女性。周りのクラスの奇異な目が私の背中に突き刺さる。
(ま、しょうがないか。)

三回目は大学浪人の真っ最中。年の瀬が押し迫った12月。
同じような原因だったのだが、10日に喧嘩し13日には東京へ着いていた。
國學院大學へ進んだ同級生が五反田に住んでいた。居候を決め込んだ。
早速バイト探し。居候した同級生のツテで渋谷東映の映画館の売店で仕事。
「網走番外地」「仁義なき戦い」「女囚サソリ」などが上映されていた時期だ。
年末には居候していた部屋の同級生が正月帰省で鹿児島へ帰った。
アルバイト代は月給制になっており、 その給与が入るまでに私の手元資金はなくなった。正月で当時はアルバイト先も探しきれず、ほぼ1週間飲まず食わずの生活が続く。同級生がふたたび東京に帰ってきた時に
「とにかく何か食べさせてくれ!」と懇願、逆に食べ過ぎてお腹を下すという失態。
数日後は日通の配送助手の仕事を探す。しかしアルバイトで入学金が貯まるわけ無く、大学進学は断念。

昨夜、商店会会員の一人の相談に乗っていた。女性だが血気盛ん。企画力も行動力もあり、なかなか頼もしい。現在40歳。
だが、少し焦っている。結果を早く求めようとしている。
その彼女の相談に乗りながら、そのパワフルさに昔の家出時代を思い出した。
私はまだノンビリと人生の先を見ていたのだが、彼女は40歳という歳のせいで結果を急いている。
私がこのお店を51歳で起業したことや、一人でやれる仕事には限界があるし、人(部下)の気持ちを上手に引き出すことを切々と説いた。

相談に乗りながら、二度と戻ってこない若さのパワーを羨ましく見ている私がそこにいた。
家出の話し、なぜか思い出した。














歌舞伎町のひとつの顔

西武新宿駅の北側に大きなビルがあり、その1階のコンビニに平日毎日弁当を納品する。配達する時間帯は朝1030分頃。
今日も弁当をバイクの背の箱に入れ配達に行く。

日清食品本社前の交差点を右折し、すぐに左折。歌舞伎町ラブホ街を抜け、歌舞伎町バッティングセンター前の青信号を直進しようとすると、赤信号をフラフラと横切る女性がいる。
(あぶないなぁ・・・)
軽くクラクションを鳴らすも、歩調はそのままにクタクタと歩く。
酔っ払っているようでもある。
その娘がお尻へ手をやり掻いた。

えっ!

ノーパンだ。
剥き出しのお尻を無造作に掻いている。

えっ、なんで?

お尻を覆うものを手持ちの品で思い出そうとしたが、交差点の途中でもあり、弁当納品時間も気になり、とっさには何も思いつかない。

想像だが。
この娘がホストクラブに入れこんだ。
ホストにヨイショされ、いい気になって酔っ払っちゃった。
あるだけの資金を巻き上げられ、さらにこれ以上はこの娘から吸い上げられないと判断したホストから下着を剥ぎ取られ、クラブから放り出された。
たぶん、こんな感じか。
バイクを運転しながら、この娘におこった事あれこれ・・想像力MAX。

助けようとしたのも正直な気持ちなのだが、朝から若い娘のお宝もの映像を拝むことができた、と思ったのも正直な気持ちだった。


またひとつ 歌舞伎町の顔が垣間見えた。









金魚鉢

網膜剥離で4日間の手術入院。
そして退院して3日が経つ。
眼の中が水を張った金魚鉢になり、その喫水線を毎日見ている。
損喫水線が日を追うごとに下がってくる。

病院での説明は、
角膜を切り、眼球の中の水(硝子体)を抜き取る。
水を抜いた後、はがれかけている網膜をレーザーで眼底に縫い付ける。
その後、硝子体を抜いた眼球にガス(気体)を注入し、手術を終える。

手術後は、硝子体の代わりにガスが置き換わる状態になる。
執刀を担当した先生の話によると、ガスが時間を掛けて硝子体に入れ替わるそうな。その間約一ヶ月と説明される。

術後まだ三日目だが、一日一日喫水線が下がっていく。
喫水線の上部がハッキリ見え始め、下部が水中にいる様に屈折した視野になる。
これがあたかも水のなかに顔を沈め、目線ギリギリで顔を出した状態に感じるのだ。
はて?

先生の説明では、もともとの硝子体は液体であり、あとで注入した気体と入れ替わるはずなのだが、ハッキリ見えるはずの硝子体の方が上なのだ。
ここで気がついた、眼球が認識する画像はレンズを通すために、逆さまに映る。
それを脳が上下(たぶん左右も)反転した状態で画像処理するのだと推定した。

本来は軽くて見づらい気体が上で、画像をハッキリ認識する液体(硝子体)が下にあるはずなのだが、画像の反転処理のせいで、あたかも喫水線に顔を出した様な感じに見える。
妙なところで人体の不思議を認識する。

ただ喫水線が下がるのは、眼が正常に戻るのを実感でき、とてもうれしい。