気力を蓄える

後楽園店閉鎖後、あっという間に10日が過ぎた。
金銭面の問題がまだ残っているし、だぶつく人件費をどう抑えるかという問題も残っている。しかし、心身ともに負担が軽くなった。ほんとに負担だったと思う。売上でも伸びていれば、疲れも負担も軽くなったのだろうが。
軽くなった負担を実感するとともに、ほんとに頑張ってきたんだと思う。
結果が出せなくて、出資してくれた方々、従業員のみんな、スミマセンでした。
 
遊んでいる余裕は全くない。
昨日の日曜日から新宿店(1店舗しかないのに新宿店という言い方はないのだろうけど・・)は営業した。
膨らむ人件費を日曜営業と早朝の弁当製造で補おうという算段だが結果は如何に。日曜営業の初日、売上は1万円強。
厨房の配置や食材の位置関係も把握してない状況で、この程度でとりあえず満足すべし。
さあ、少しずつスピード上げていくぞ!

後楽園店のカウントダウン

最終営業日が明日までとなってきた。
さすがに寂しい・・・。
後楽園店の営業年数6年。
6年はやはり長い。愛着を感じる十分な時間だ。
残存機材のリース物件を解約し、解約費用だけでほぼ100万円。
他にも店舗の原状回復に大きな費用が掛かる。
入居当時、リニューアルにほぼ1000万円使った。
退去にあたって、入居時に匹敵するくらいの費用がかかりそうだ。
家内が
「一生懸命やったけど、借金だけだったね、残ったの・・・」
「うん、だね。」
私と喧嘩をしながらも懸命についてきてくれた妻に、掛ける言葉がない。
これまでの軌跡を思い返そうとすると、ウルウルしてくる。
まだまだ超えなきゃいけない山がもう少しあるから、感傷に浸る暇はもう少し後回しだ。思いのたけに蓋をする。

重い気持ちを早く切り替えて、プラス方向に早く自分のパワーを使いたい。
もう少しだ。
もう少しで足かせが取れる。
もう少しだけ踏ん張ろう・・・

歓ファン後楽園店、撤退

新橋に「梅花メイフア」という糖質制限専門中華料理店を出したのが、東日本大震災のあった2011年4月。 14年2月に舞台を後楽園に移し、屋号を「歓ファン」に変更し、さらに営業を続けること6年。都合9年にわたる糖質制限レストランを閉鎖することに決定。

決定はずーと以前に決まっていたのだが、具体的な日時が決定したのは昨年師走になってから。 1月29日営業最終日。30日、31日と片付けがあり、そして店舗引渡し。
引き渡しに際して決め事がまだ細部まで詰まっていないために、まだまだ紆余曲折あるものと思われる。そのほとんどがお金にまつわるもの。私に資金的な余裕があれば打つ手も様々あり、そもそも撤退もまだ先の話だったと思う。
撤退に対しては、こちらに資金的にひっ迫した状態があるためにどうしても話しは受け身にならざるを得ない。それでもこの難局を乗り切ろうと考える。 あらゆることを想定、あらゆる方法を模索、あらゆる方にご相談。 それでも決定打は見つからない。 真摯にあきらめずに目の前の問題を一つ一つ解決していくしかない。それも1月末という時間制限のある中で。
精神的に非常に疲れるし、疲れが回復しない。たぶんストレスも相当溜まっていると思う。資金繰りを担う家内に至ってはなおさらと想像する。言葉だけのいたわりより「現金」。それに尽きるのだが、家内も気怠そうな表情を見せながら、なかなか弱音を吐かない。逆の立場だったら私は逃げ出すかもしれない。と、こんな妻と一緒に歩いてきたことを心から感謝。
後楽園のスタッフには全員に今回の撤退は伝えてある。驚き、落胆し、一部は涙ぐむ。が、気持ちが落ち着いた今、皆一応に仕事、お客様に普段と変わらない接客をしてくれている。手抜きや投げやりな態度を見せないのだ。 つくづく良いスタッフに恵まれたと、これまた感謝。
あと少し。あと20日ほど。みんな頑張って。そしてありがとう。

子育てと孫

ある記事の一節

「小3の娘が反抗期で妻が困り果てていたので
「人の命は3万日。父と母は残り2万日。同じ家に住むのは残り5千日。3人そろって休日を楽めるのは、どう頑張っても残り2千日」
と伝えたら、目を丸くした後、急に家事を手伝い「お出かけしよう」と言うようになった。
数字にだって気持ちは込められる。」

子供たちが巣立ち、その子供たちが育てる立場になっている。
孫の写真や動画がSNSでほぼ毎日のように届く。
生きるのに精一杯だった私たちの若かりし頃、ここまで子供達に構ってやれなかった。思い返しても流石にここまで子供に接する時間は作れなかった。
良し悪しは置いとくとして、子供の立場で、親(私たち)からここまで構って欲しかったのかな、と感じることがある。
さらに時間を戻して、私が子供の頃の記憶を呼び起こした。
誕生日や正月など、一年の間に数回しか卵料理を食べられないくらい貧乏だった。
親父が炭鉱で働き、母は専業主婦だった。女の勤め口などそうそうなかった。家をきりもみすることで大黒柱の親父を助けていた母。
顔が見えるほど母は近くにいたが、一緒に遊ぶ、構ってもらえると言うにはほと遠かった。
自然が舞台であり、虫や動物が先生で、同じく構って貰えない近所の子供たちと走り回っていた。
それが当たり前の時代だった。

孫が動き回り嬌声をあげている動画を覗き込みながら、時代とともに過ぎ去ろうとしている私がスマホにいる。

弱さの呪縛

経営に携わっていると、悩むこと苦しむことがたくさん出てくる。
人事、運営・・・・
景気が悪いと、特に出てくるのが金銭問題。
ここ数年赤字が常態でつきまとう。
さすがにここまで赤字が続くと苦しい。
水面に口を突き出してアップアップしている金魚状態だ。
 
自転車操業で止まることも降りることもできない。
お金をやりくりする経理部長(家内)を横目に、
(何とかせねば・・)
と焦るが、何とか何とかと思うばかりで具体的な方法は思いつかない。

なんでこんなに悩むんだろう
なんでこんなに苦しむんだろう

根本的なことを考えてしまう。
そうして、悩む苦しむ答えを自分で持ってないことに気が付く。
答えは絶対にあるはずだ。
あきらめた時が終わりなんだと、自分の中では踏ん張っている。
だが、いつまで踏ん張ればいいのか、どうやれば抜け出せるのか。

はたと気が付いた。
自分に答えがなければ、この答えを持っている人間がどこかにいる。
悩んだら人に聞け。
苦しんでいるのなら人に会え。
答えを持っている人がどこかにいる。

たぶん一番の問題は、
苦しんでいる悩んでいる自分をどこまでさらけ出せるか、
見栄も張りたくなる。
弱音を見せたくない、
弱い自分が一人になる怖さを知られたくない
私も含めてそこを抜け出せない。
人の弱さの呪縛がある。

 

猫が教えてくれたこと

最相葉月さんが書いた日経新聞のコラム。
身につまされたので、シェア。

———–◆◇◆———–

半年前、猫が死んだ。もともとウイルス性の鼻炎を患い、亡くなる数カ月前から出血が続いたが、最後はほとんど苦しむことなく静かに息を引き取った。人間でいえば80歳を超えている。十分生きたと思う。

飲んで食べるという生存の土台を自ら手放すことによって、いのちの炎を少しずつ消していった。寝ている時間が多くなり、食べ物を受け付けなくなってから3週間、水を飲まなくなってから1週間。だんだん呼吸の間隔が長くなって、最後に二つ、大きな息を吐いて臨終となった。

正確な死因は不明だ。レントゲンで腫瘍らしきものは見えたが、手術はむずかしいと判断し、対症療法的に鼻腔(びくう)の通りをよくする蒸気を嗅がせるぐらいで延命治療は行わなかった。これは過去に飼った2匹の猫をめぐる苦い経験が教訓になっている。

1匹目はベランダからの転落死、2匹目は腎不全だった。1匹目の衝撃が大きすぎたせいか、2匹目はとにかく死なせてはならないと何度も病院に連れていった。口をこじ開けて注射器でエサをやったこともある。この猫は苦しみながら死んだ。死に向かっている体を人工的に生き長らえさせたからだと思う。かわいそうなことをした。

末期がんだった私の父は8年前、尊厳死を遂げた。54歳で若年性認知症になった母のことは近い将来、私が判断しなければならないだろう。長い付き合いなので理解しているつもりだが、その瞬間に娘のエゴが邪魔しないとも限らない。私自身の番が来たときのことはもっとわからない。猫たちが身をもって教えてくれたことを胸に、よくよく考えておかなくてはならない。

月曜日のランチに選ばれないお店

今年に入り、1週間のほとんどを後楽園店で過ごしている。
50席ほどの店内で、平均ランチ数は50名。
新宿店のランチ数が席数40に対して60~70程度だ。80超えも珍しくない。4人席に3人だったり、二人席に1人だったりすることを考慮すれば、ほぼ2回転。
比較すると後楽園店のランチ数はどうしても少なく感じる。1回転しない。

夜の営業はともかく、まずランチから手がけようとして半年を過ぎた。
ランチタイムのサラダバーを導入。ほどほどの客入りでもサラダバー付近に人が群がるために入口当たりから見てると盛況に見えなくもない。お客様の反応もまずまずだ。
「よし、この調子で踏ん張ってみよう。本当に混み合うまでちょっとの辛抱だ。」

半年が過ぎた。
サラダバーの企画を出して2ヶ月後には10種類出す予定だった。しかしその間に職人さんが立て続けに2人辞めた。後任がなかなか決まらないうちに、とうとう厨房は一人体制になった。外国人調理補助をつけ、かつ調理人がお休みの時や2時間の休憩時には私が厨房にたつ。そういう状態の中、負担を考えて、厨房にはランチサラダバーの種類はコールスローを含めて7種類程度用意させた。メニューは何種類か出して貰っているのだが、原価のことを考えるとメニューがどうしても偏る。底を私が出来るだけフォローしている。
新宿からの道すがら、業務用の安売りスーパーがあり、そこで安いものを見繕っていく。
当日仕入れ、当日仕込む、即興サラダバーメニューだ。
そうやってランチの売上げを落ち着かせようと踏ん張っている現状だ。

だが、勤務ランチが伸び悩む。
おおむねお客様の受けは悪くない。が、それがランチ数として表れてこない。

大概のお店は、週の初めにその週のメニューを更新心してくる。昼食を過ごすのにランチ休憩が限られているサラリーマンにとって、ランチは貴重な時間だ。仕事で拘束されている一日で一番ホッとする時間だと思う。
そして月曜日、この週のランチが何かを偵察に来る。偵察の基準はいろいろあるだろうが、お気に入りのお店の様子を、まず最初に見に来る。
歓[fun]の新宿店が、まさにそのお店なのだ。その前の勤務していた新宿三丁目のお店から、そういうやり方で通してきた。そして、その区域のサラリーマンや住民に支持していただける仕組みを作っていた。それが当たり前だと思っていた。

月曜日の後楽園店、他の曜日よりもランチ数は10個ほど少なく感じる。
地域の方たちに支持されていない、少なくとも一番ではないと感じる。
後楽園店のある、地下鉄駅ビル5階に出店している、どの店も、月曜日は落ち着いている。
この地域での一番はどこ?
そして、どういう手段が残されている?  

 

寒波到来!

水が出ない!
7時。目は覚めていたが、身体はすっぽり布団の中。
「水が出ないぃ!」

はぁ?

「洗濯が出来ない!」
ベランダに設置している洗濯機の前で家内が吠えている!
(寒さ?水道が凍っているのか?)
「ねぇねぇ、トイレの水は出るんだけど、洗濯機の水が出ないの」
風呂も予約してあって、家内は一番風呂に入ったはずだ。だから風呂の水もOKだ。
ベランダ設置の洗濯機だけ。
(水道が凍ってる?!)

ブブブー。ブブブー。
マナーモードの携帯が震える。
相手の表示は新宿店厨房の北山。
時計はまだ7時半。
「おはよ。どうした?」
北山はマルイの弁当を担当しているために、早番勤務。

この日は歌舞伎俳優「香川照之」から依頼されたチマキ100個がある。
9時に引取だ。ために、北山はいつも以上に早い出勤だ。
「社長!水が出ない!」

(えっ、こっちもか)
「トイレの水は出てますが、厨房やドリンクカウンターの水は出ません。」
(こっちも水道が凍ってる・・・? 寒波のせい?)
開店以来13年、初めてのフリーズ!
自宅は家内に任せて、とりあえず店へ向かう。

通りは、雪が道路脇に寄せられ、灰色の塊になってあちこちに放置されている。
いったん溶けた水が再び凍り、踏めば痛い思いをするのは確実だ。

店に着き、水道の元栓を確認。凍って回せない。
屋根続きの隣家「生ハム」へ行く。
「水、出てる?」
「ええ、出てますけど、どうかしました?」
隣とは同じ水道栓を使っている。断水の可能性はなくなった。
とすれば、配管の一部が凍っていると判断すべきだろう。

念のために管理会社に電話を入れるが、案の定「お休み」
「営業時間は平日10時から・・・」
と無機質なテープの声が流れる。一つの解決方法が消えた!

とりあえず9時引取のチマキだ。
何か解決方法はないか?
隣り「生ハム」、向かいのうどん屋「母屋」に行く。
歓[fun]と同程度の蒸し器がないか確認する。
やはり、ない!
また一つ消えた。
他に方法は?

北山が
「後楽園店で蒸すというのはどうでしょうか?」
すでに8時半。
行って帰って移動時間が約40分。蒸すのが最低で30分。詰め替えの時間を加算すると
「無理だよ!」と却下。

(待てよ!もしかすると起死回生の一手かも。)
考えれば考えるほど、これしかない!
というより時間さえ間に合うのであれば一番の妙手だ。
ナイス、北山!

チマキの依頼者である香川照之さんのマネージャーに電話を入れる。事情を説明。
「水道が凍る?東京でそういうことが起こるんですか!」
「時間はどのくらいかかるのでしょうか?何時頃引取に行けば良いのでしょうか?」
良い質問だ。
「今からバイクでチマキを後楽園に持って行きます。20分弱。後楽園店でチマキを暖める時間と梱包に40分。帰りも同じ20分。1時間半です。」
「今が8時半なので10時には間に合わせます。」
「わかりました。それでいきましょう。それから緑川スタジオに向かいます。ギリギリOKです。」

結論が出ると行動は早い。電話を切った携帯をポケットに入れる間もなく
「北山、チマキ積み込むぞ」
「水はどうしましょう?」
「建物の管理会社の電話番号を教える。10時から営業だが、たぶん9時半には誰か来てるだろう」
「マルイのお弁当は?」
「あそこは少々遅くても大丈夫だ。お昼のお弁当時間に間に合えばOKのはずだ。とりあえずマルイの店長に、遅れるって電話入れとけ。」
バイクのキーを回し暖機運転状態にする。
発泡スチロールと、弁当用の籠にチマキを詰め込む。
雪解けあとのアイスバーンを避けつつ、慎重にハンドルを握る。
後楽園店に到着。B1の管理人室を抜け業務用エレベーターに。
5F。
厨房の電気を付ける。スチームコンベクションのスイッチを入れる。
ブーン。
機械が稼働する。10度程度だった庫内温度がぐんぐん上がっていく。
100度に達するのに5分。それから25分。計30分のタイマーを設定。蒸し上がったチマキを発泡スチロールに詰め、熱が逃げないようガムテープで封印。
さあ、再び新宿へGO!
帰路は出勤時間と重なり、混み始めた。
(今日は25日。そうか五等日か。混んでるはずだ。)

10時5分。
新宿着。
近くセブンイレブン前に黒塗りの高級ワゴン車が停車している。
バイクのエンジンを止めると同時に、香川照之さんのマネージャーが近づいて来る。
間に合った!

身も心も凍り付いた寒い朝だった。

故障、故障、故障・・・連鎖

チマキが絶好調だ。
ビックリするぐらいの注文が来る。大手芸能プロダクションからの発注が来るのだ。
100個、200個は当たり前。つい先日は2000個という注文が来た。
そして年末、紅白歌合戦のスタッフへの差し入れ2000個も来る予定だ。
電話を受けた社員は、この注文に即答できず、私の携帯に
「どうしましょう?」
「厨房はどう言ってるの?作れると言ってるのですか?」
「厨房は大丈夫だそうです。」
「だったら、引きうけてください。引きうけない手はありません。」
 
すでにチマキはお店では作っていない。作って貰っている。アウトソーシング、歓[fun]仕様の外注だ。
委託先が受注に問題なければ、あとはチマキをスチームコンベクションで温め直し、アルミホイルを敷き詰めた発泡スチロールに詰め込み、ガムテープでガッチリ封印し、チマキの熱気が逃げないようにするだけだ。
運転免許を有し配達できるドライバーは私と厨房の調理長だけだ。料理に調理長は欠かせないために、いきおい配達人は私の役目になる。
 
調理長が
「スチームコンベクションの調子が悪いんですが。業者に点検させたのですが、修理にかなりの費用がかかるみたいで、夕方、その業者が社長に相談しに来ます。」
(えっ、脅かすなよ。わざわざ断ってくるところを見ると、何十万円単位だな・・)

夕方後楽園店から電話が来る。聞くと冷蔵庫が効かないという。
後楽園店は以前から換気ダクトの調子が悪いと言われ、空調業者に見積もりを頼んだばかりだ。これだって40万円という見積もりが来ている。

こういう故障ごとは往々にして重なってくるのだ。
うぅぅぅ・・・・・
スチームコンベクションだって、チマキの受注がある限り、必須アイテムだ。
うぅぅぅ・・・・・
私が故障しちゃう!

いくたとうま

「もしもし」で始まった。
鶴瓶さんからのチマキの依頼だ。

10月前半戦は大手プロダクションからチマキ1000個の注文があり「おお!」
対前年比を大きく上回り、新宿店絶好チョー!
それが10月後半は急ブレーキがかかる。
思うように売上が伸びない。
好事魔多しという文句はこういう時に使うのは適当じゃないだろうが、
「どうして?えっ?おっ?」
忙しい日も予約だけで終わる。フリーのお客様が来ない、というより歩いてない。
選挙のせい?
景気のせい?
わからない。でも10月も明日で終わりというこの時期に、こういう注文はありがたい。
鶴瓶さん、いつもいつもありがとうございます。

「キャロットタワーに明日や、持って行ってくれはるか」
「ありがとうございます。どなたに?」
「いけだとうまはんや」
「いけだ・と・う・ま様ですか?」
「違う、いげたや」
「えっ、いげた?」
「違うがな、いくたや」
もうこの辺になると、鶴瓶さんの声が尖ってきている。
「いくたですね」
「あんさん、知らんか?いくたとうまや!」
「スミマセン、テレビをあまり見ないんで・・」
「生田斗真を知らんの!」
なぜか私は自分の浮き世離れした(だろうと思う)姿に、笑いをこらえられなくなった。
聞こえたのだろう、私の笑い声に
「あんさん、笑てんの」
「スミマセン、スミマセン、堪えきれなくて」
「いくたのいくは生(なま)、たは田んぼの田(た)や」
はいっ。
『とうまのとうは北斗の斗(と)、まは真実の真や」
鶴瓶さんに最後まで言わせてもうた。
「はい、調べておきます」
時間と個数を効いた後
「ほんまに頼んまっせ」
図らずも鶴瓶さんとの漫才トークになった。

笑い声を押さえきれないアルバイトのお姉さんに聞いた。
「社長、今、旬の人ですよ」
絶句のあと、口をあんぐり。
側で10代のアルバイトが笑いをこらえていた。
そこには
「何がおかしいんだ!」
と怒れない私がいた。

夜遅く、ネットで「生田斗真」を検索。画像を表示。
「なんだ、俺の若い時にそっくりじゃん・・・・」