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高齢者

ある飲食店に紹介した職人さんが、紹介先を辞めた。
辞めたという電話がお店の方からあった。
いろいろとあったのだろうと推察する。
その数日前に、辞めると本人から言ってきた。
職場環境でよくよく悩んでいたようだった。

65歳。私より2歳年下だ。
彼はこれまでに務めていた会社環境によって年金も微々たるものらしい。
せめて家賃分だけでも稼ぎたいと言ってる。
年齢を重ねるたびに仕事探しは難しくなる。
それでも辞めるという選択肢を取った。

コロナという災禍がやってきて、会社そのものが閉鎖、倒産するところが増えた。そこまでいかなくとも飲食店にとって人件費の削減は必至だ。削減対象に高齢者が先にあがるのは当然だ。
身につまされる。

歓ファンも、高齢者が多い。
歓ファンがなくなれば、早速仕事に困る人たちだ。
私も同様だ。
だから何とか踏ん張りたいと、改めて思う。

男は不器用だ。まじめな性格であればあるほど、生き方も不器用に生きる。
これまで仕事一辺倒だった男が、定年退職で家庭にいる時間が多くなればなるほど、家庭内での器用な役回りが出来ない。家庭の中で大きな障害物となる。
例えば奥さんが洗濯物を取りに行くにも干しに行くにも、目障りな障害物があって、直線距離で作業できない。
(わたしが洗濯しているのがわかっているのに、この人ったら・・・)
という感情が芽生える。
男だって、そんなに鈍いわけじゃない。奥さんのイライラは伝わってくる。ここから男の不器用が出てくる。対処の仕方がわからないのだ。

女と男の根本的な違いがある。対処方法ができる女と、目的を作って動く男の差だ。
何にでも例外はあるが、泣くしか表現方法を知らない赤ん坊を、赤ん坊の立場になって考えられる女と、自分本位の楽しさを知らせようとする男の違いが大きいと思う。
電気や電波など発見したのはたいていは男だ。冷蔵庫や洗濯機、テレビを作ったのも、だいたいが男だ。出来上がった冷蔵庫や洗濯機を活用しているのは女だ。そういう違いがあると思っている。冷蔵庫がない時代よりもはるかに便利さを享受していると思う。
でも、いつの間にか女だけが負担がかかり、男は享受するだけだと責められる。
根本的な違いが男と女にある。

しいて言えば、0から1を作るのが男の役割りで、1を2に、3に増やすのが女の役割と思う。攻めるのが男だし、守るのは女が適している。ただし何事も例外があるので、誤解のないように。
男女ともそれぞれが必要なのだ。必要だということは、お互いにないものを相手が持っているから。

歳をとってくると、身体に様々な変化が訪れる。
ボケもそうだし、身体的にも不具合が起きてくる。車と一緒だ。
新車で購入しキビキビ動いていたのが、年数とともにあちこちにガタが出てくる。車につく多少の傷や錆はもちろんのこと、ドアがぎーぎー言ったり、エンスト起こしたり。
人もいつしかポンコツになる。そういう年齢に私も、紹介した方もなってきた。

そういうポンコツになる流れの中で、仕事がなくなるということは、生きるための糧道を絶たれるといった感じだろうか。
難しい時代になったと思う。思うと同時にこの変化についていけない人たちも出てくる。
私とて、例外ではない。
紹介した人のとった「糧道を絶つ」という選択肢に、先行きがとても心配になる。心配は私の明日でもある。

男の不器用さを語るつもりで、話しが脱線しながら、とりとめの話しになった。

感染拡大予防ガイドライン

「新型コロナウイルス感染拡大予防ガイドライン」なる案内が飲食組合から届く。細かく予防方法が書かれてある。
読んでいて、ため息が出てくる。
チェック項目をいくつかご紹介する。
◆店舗入り口や手洗い場所には消毒液を用意している。
この程度はやっている。
◆店内が込み合う場合には入店をお断りしている。
これもやっている。もう少し入りそうだなと思っていても、4人席に2名だったりする。入り口近くで待機してもらうこともあるが、時期柄ドアは開けっ放し。表の熱気と道路側に設置してあるエアコンの熱気が、空いているドアから入ってくる。そこでお待ちしているお客様、汗をぬぐいつつ待つ。
◆お客様が入れ替わるたびにテーブルやカウンターを消毒している。
これも従業員がこまめに拭いている。

他にも多岐にわたってチェック項目が並ぶ。アクリル板こそ設置してないが、そこそこ合格範囲だと思う。
しかし、各項目にチェックを入れるたび、気持ちの中に空しいものがこみあげてくる。まるでお客様(従業員)がバイ菌扱いだ。
近くによるな、触るな、接触したら消毒だ。
これじゃお客様は来ないし、集められない。

先日7名様の予約があった。
歓ファンの円卓は通常8個の椅子が並べてある。多い時には10名様座っていただく席だ。
しかし、この日。
予約のお客様が店内に入り、円卓を確認されてすぐ、
「あー、まずい、まずい。」
「今、5人以上、同じ席に座るとまずいんだ。」
「別な席を作ってください。そこに4人、3人で分けて座るから・・・」
このコロナの時期でテーブルは空いている。まったく差し支えない。
でも・・・・・。
8席の円卓、6人掛けの角テーブルにそれぞれ4名、3名でセッティングする。
でも・・・・・。

大4人升席に1人で座らせる大相撲を思い出した。
(これじゃ、商売にならない。儲けられない。損するかもしれない。)
損かもしれないと感じつつ、商売を続ける意味を、ソーシャルディスタンス席にお客様をご案内しながら、ついつい考えてしまった。

心の中の、歯を食いしばって、燃え続けさせている火が、また一つ消えたような気がする。

「山の日」に思う

長い梅雨が明けたと思ったら、強烈に暑い日々が続く。
夏だ。そしてお盆がやってくる。
あまり孝行息子でない私は帰省するでもなく、例年山登りにいそしんでいた。

お盆まではどの山も混雑する。山小屋は定数以上の宿泊客で込み合う。
「避難」という性質を持ち合わせるために、基本的に山小屋は宿泊する人を拒めない。だから一つの寝具に2名、3名泊めるのもありだ。
混雑する時には、夫婦でも、男性女性と振り分けられて別々な床で寝る。
隣客を選べない。寝返り打つのも気を使うが、イビキをかく客が隣だと最悪になる。

それを避けるために、私はお盆過ぎ1週間目あたりに行く場合が多かった。
断然空いている。
日程に合わせて、列車時間を調べ、駅から登山口までのバス時刻を調べ、およその登山工程時間を計算し、そのほとんどが縦走だったために、帰りのバスや駅も調べた。何日もかけて駅や地元情報を集めた。
そしてそのほとんどが私の一人登山だった。
テントなどを持参するわけでなく、カメラと数日分の着替えと食料をリュックに詰め込み、山小屋に数泊する、割と簡易な登山だった。

それでも尾根伝いを歩くときに、滑落しそうになった時がたびたびあった。

突然の雨に会い進退窮まったことがあった。ただひたすら岩陰に潜み雨の過ぎ去るのを待った。ヤッケの隙間から冷たい露が入り込む。
(これ、30分以上続くとやばいな!)
低体温になり自分の唇が紫色に変化しているのを感じる。

濃霧に包まれ1m先も見えず、恐る恐る歩を踏み出した瞬間、風で霧がサーっと晴れると、目の前に切り立った崖が現れ、ドキッとしたこともあった。

一人登山だったために、もし滑落などの事故があった場合、助けてくれる人もいないし、たぶん数日、数か月見つからない場合だってあっただろう。

無責任だが、自分の運試しみたいな気持ちで山登りに臨んでいた。自身で商売していて苦しくて仕方ない時に、一つの運試しに山登りを選んでいた。
(俺に運がなければ、このまま逝っちゃうだろうし、運が残っていれば、下山後の運だって俺に回ってくる。)
何の根拠もない運試しに登山を使っていた。
もし遭難などしたら、迷惑千万な奴だ、私は。

運試しだったが、でも山は楽しかった。苦しいこと(主に商売のことだったが)をすべて忘れられた。体の中のエネルギーがすべて入れ替わり、新しいパワーが入ってきた。

前立腺の手術後それができなくなった。尿障害が残り、登山最中の処理を考えると、面倒であり鬱陶しかった。
山が遠くなった。山に行かなくなって今年が4年目になる。

事業承継

コロナ禍で否応なく事業承継を考えざる得ない。
お店を助ける、ひとつの方法でもあるからだ。
ホールで働く72歳の女性がいる。気働きができ、私が最も信頼できる女性だ。この人がいるから、私が外で動ける。そして何よりお店のことを芯から心配してくれる人だ。
だが、年齢的に後継者には難しい。となると後継者は現在一人しかいない。
50歳の調理長だ。
一度だけ事業承継のことを話した。
継承時点で調理長が負担する金銭的部分はない。彼にとっては”おいしい話し”のはずだ。さすがに彼は即答はできなかった。

機会があればこれからも話していこうと思う。ただしコロナ禍で、時間が非常に限られてきている。間に合うかどうか・・・・・。

歓ファンの隣にイタリアンがある。元々アゼルバイジャン料理店だったところを居ぬきで買い取った会社があり、その店長を務めていた。一定の年数がたったら彼のお店になる契約だと語ってくれた。サブリースで運営したものを、後々フランチャイズに移行していくシステムのようだ。

今回のコロナ禍、このイタリアンにも大きな欠損を出している。飲食店全部に言えることなのだが、この店長(現在はオーナー)もメンタル的に弱っている。
が、彼はまだ借金していない。その借金を私は彼に薦めた。
彼は逡巡している。

ある意味、調理長とこのイタリアンの若きオーナーは似通っている部分がある。
経営者の資質の重要な部分だ。
一言でいうと『勇気』だ。一歩踏み出す勇気だ。
どんなに才能が有っても、この『勇気』がないと一生人に使われることになる。
勇気のないことが駄目ということではない。
リーダーに必要な資質の大きな要素に「勇気」が必要だということだ。
リーダーにならなければ、例えば参謀だったり番頭さんの役割が性格的に会う方もいるし、この方たちに「勇気」はさほど重要なファクトではないし、むしろ「冷静さ」「慎重さ」が必要だったりする。だから勇気がないことを攻める気持ちは毛頭ない。
でもリーダーには「勇気」は必須だ。

残念ながら、イタリアンオーナーも調理長も今は、この勇気が振り絞れないようだ。今が勇気を絞り出す時ではないのかもしれない。生きている間には、こういうチャンスが少なくとも3回は巡ってくると私は思っている。
残念ながら事業承継を考えるこの時期ではなかったのかもしれない。
引き続き、事業継承を薦めてはみるが。

コロナ第2波

コロナ第2波と言ってもいいのだろう。
まったくお客様が来ない。緊急事態宣言当時に逆戻りしたみたいだ。
売上は激減!

人と会う用事で丸の内国際ビルに行ってきた。待ち合わせ場所は私の元従業員が店長をやっているお店。有楽町駅に直結するビル地階の飲食街にある。5時に待ち合わせで、滞在時間は7時半まで。
通常であれば三丁目に負けないくらいにぎやかな飲食街なのだが、まったく1人のお客様も来ない。通路側の席で飲食。曇りガラスの壁向こうは通路。ガラス越しに通路の雰囲気は伝わる。が、歩く人の気配はない。帰り際この地下街を周回して帰ったが、全部の店舗に一人もお客様いない。驚愕!
平日木曜日夜の7時半だよ。

その足で新宿三丁目経由でお店に帰る。
新宿三丁目もガラガラ。一回りして数名程度いるお店が、ホント数軒。
死んでいる。

そのまま三番街商店会を通過。もっとひどい。
ノーゲストのお店以外を探すのが難しい。20店舗程度はある商店会で数名程度のお客のある店が2軒。

さて、いよいよ我が医大通り商店会・・・・・・・。
いない!
どんなに少なくとも、顧客でカウンターの半分が埋まっている「鳥せん」(隣の焼き鳥屋)もノーゲスト。女将さんが電話していた。
「あんたんとこ、焼き鳥食べない?持って行くわよ」
押し売りデリバリー!顧客を持っているお店ならではの無茶ぶり。

近日オープンした「博多食堂」は一人。「生ハム」2名。「ワイン事務所」2名。
そして「歓ファン」・・・・。
カウンター1人とテーブル席に1人!
おお、勝った・・・・じゃないよ。

尋常じゃない!
何より怖いのは、この状態がいつまで続くかわからないことだ。
運転資金も底をついている。
(こりゃ、お店、持たん!)
率直な感想だ。
かなりの数の倒産が出てくると思う、これから数か月で。年末まで持たないお店・・・・。

Go to なんちゃらやら、アベノマスクやら、的外れな政策が多い。多過ぎる。
親しくしている議員に言った。
コロナで亡くなる人よりも、経済的に亡くなる方の方が多くなりますよ。
その時には”殺人罪”や”殺人ほう助罪”は適用にならないのですか?って。

政府、何をやってますか?
これほど無策を呈するとは。これでは民主党と同じだ。
原因はひとえに、困窮する人たちのことを『他人事』だと思っているから。
一人くらいボーナス返上を申し出る議員いないのか?
ボーナスは翻訳すると賞与。言い換えると結果報酬だよ。
結果出してないのにボーナスなんて。
自民党、つぶれるよ。代わりになる政党がいないけど・・・・。

何より腹立たしいのが、マスコミだ。煽るだけ煽って、ただただ不安だけが膨らんでいく。

今週の産経新聞コラム「週刊ウォッチィング」の記事から抜粋
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『週刊新潮』はこのところ一貫して「騒ぎ過ぎ」論を展開しているが、今週(8月6日号)は高橋泰氏(国際医療福祉大学大学院教授)の説を紹介。題して「実は3人に1人は感染済み! 『コロナ拡大』を恐れる必要がないこれだけの根拠」。

 〈「新型コロナは毒性が低いので、抗体を出すほどの外敵ではなく、自然免疫による処理で十分だ」と判断。このため獲得免疫はなかなか出ないが、その前に自然免疫の力で治ってしまうことが多い--〉

 高橋教授によると「自然免疫」は「お巡(まわ)りさん」。攻撃力は高くないが、病原体が侵入してきたら排除しようとする。一方「獲得免疫」は「軍隊」。1種類の敵にしか対応できないものの、殺傷力の高い抗体が、いわばミサイルとなって敵を撃墜する、という。 5月10日までの日本人の「暴露(ウイルスが体内に入り込むこと)」率は〈30~45%〉、つまり国民の3人に1人がすでにコロナに感染済み。しかも、〈暴露した人の98%

 で、結論。

 〈インフルエンザよりはるかに弱毒性で、無症状者や軽症者が多いウイルスに対し、インフルエンザと同じ対策をしていては、弊害が大きすぎます〉


リニューアルオープン

23日から店内リニューアル。といっても壁紙の張替えだけ。
それでも結構大掛かりな工事になった。
まだ運転資金がある程度残っており、コロナ収束後の巻き返しを図るために4月に決定し、改装資金の3分の2を業者に払い込んでいた。
私の中での予定では、遅くとも6月末にはコロナ収束し、7月には6~7割程度は回復するだろうという見込みだった。そこへ「リニューアルオープン」と銘打って、7月下旬か8月上旬に、芸人さんなどを手配し、プチ祝宴をお客様とともに披く予定だった。

7月になって数日はランチも回復し、心の中で(ヨッシャー!)と叫んで間もなく、200人台の感染者数が連日続く。同時にランチ客もディナー客も急速にしぼむ。

でもね、お店きれいになったからね。壁紙だけのリニューアルだけど、見に来てね、神様、仏様、お客様。
昨日は埃だらけのグラスや食器も洗い直し、床のクリーニング、ワックスがけもすませ、スタッフ全員で明日からの準備をすませた。
今、きれいになったお店に必要なのは、お客様だけです。

お待ち申し上げます。

コロナ再び-その2-

ここへきてのコロナ感染数、連続増加の報。
ランチだけでも通常の8割程度まで戻ってきたと思ったのに、先週の金曜日、そして今日、月曜日。ランチ数の伸びが重い。
夜はさらに厳しい。
「倒産」という川を背にした「背水の陣」は、連日コロナの波状攻撃を受けると、実に厳しい。気を吐いているのは数日前にオープンした「博多ラーメン」のみ。ま、開店ご祝儀の分も手伝っているのだろうから、少し差し引いた繁盛と思ったほうが正解だろうけど。

本日3時ころ社員を集めてのミーティング。
今までは短縮勤務や休暇を薦めていたが、社員の給与は満額出していた。
しかしここにきて運転資金が枯渇してきた。
とにかく売上がない。なさ過ぎる。
お昼が戻ってきたなぁと少しホッとしていた矢先、この連日の感染者数増。

具体的に1週間のシフト表を提示し時短の指示を出した。たぶん給与は2/3程度になる。社員の生活を考えると、この減額はかなり厳しいと思う。思うが、この数日の売上や、数か月先、1年先の売上予想を考えると、会社の倒産が現実味を帯びてくる。

このブログでは、なるべく悲観的なことは書きたくない。
私は達観(開き直っている)しているのだが、この段になってもまだ生き残りを謀っている。

「色即是空、空即是色」
形あるものは、いつかはなくなる。
そうは思っていても、もう少しあらがってみようと考える。
2、3手は打つ手がある。その手が悪手かどうかを確認している最中でもある。

どうなるのかな・・・。
まったく読めないな・・・。
読めないから、どういう手が正解か、も読めない。
かといって、行き当たりばったりでも行き詰るのは目に見えてるし。
ここが経営者の力の見せ所なのになぁ。
と、最善酒を目指して

コロナ再び

コロナ感染者数が減らない・・・どころか増えている。
そのたびに”東京””新宿””歌舞伎町”と連呼されれば新宿からお客様が逃げていく。それどころか、地方から「東京の人間は来ないでくれ」と・・・・。
コロナ=東京じゃないか!

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」
どう考えても騒ぎ過ぎだと思う。
コロナで倒産、自殺という方も少なからず出た、と聞いた。
このポスターに書いてある通りテレビ局が煽りすぎだ。
日テレの「スッキリ」という番組。
コロナ禍でも人手が出ている場面が欲しかったのか、アーチのかかる「歌舞伎町一番街」の看板が画面に映る。
うんざりしながら見ていると、次に映る画面は見たことのある街角が数点。1秒もしないうちに切り替わるが、間違いなく新宿三丁目の風景だ。一見、人がたくさん出ている風に見える。しかし実際はコロナ禍で通りに椅子テーブルを出して三密を避けている店舗の工夫なのだ。だから店内はガラガラ。これだけ「歌舞伎町」、「ホストクラブ」と連呼すれば歌舞伎町だってガラガラだ。
それだとテレビ的に絵にならない・・・・・・。
それが「歌舞伎町一番街」のアーチ看板であり、新宿産地丁目界隈の路上飲食だ。


コロナ前の原宿竹下通りを、コロナ後でも人通りが絶えない場面で使った、テレビ局の小汚い手口と一緒だ。
でも、たぶんこれはテレビ局は関知していない。下請けの番組制作会社の仕業だ。安易に請け負い、身勝手な忖度をし、面白、可笑しくを趣旨とする制作会社の判断だ。
もちろん最終的な責任はテレビ局にあるのだろうが、キー局もそこまで気も手も回らないというのが実情だと思う。下請けに回す制作会社の質が確実に落ちているし、そこに勤めるスタッフが仕事や世間をなめているのだ。いつかしっぺ返しがくる。

コロナが、メンタルの弱くなった日本や日本人をあぶりだしている・・・・・・・。

糖質制限とフカヒレの姿煮

私の調理師歴は17年ある。新橋の新橋亭(しんきょうてい)をスタートして実に様々なお店を渡り歩いた。その中で比較的長いお付き合いをさせていただいたのが前勤務先「胡座楼あぐらろう」のO調理長。今は引退されている。
この人のもとで様々なお店に修行に行かされた。様々なお店を渡り歩いた主な理由だ。調理の師匠は一貫してこの方だった。

この調理長、料理に関しては天才だと、私は今でも思っている。
この方の下で育った調理人は、私の知っているだけでも10指に余る。
かくいう私もそうだったし、歓ファンの前調理長も兄弟弟子だ。
残念ながら調理師としての私は大成しなかった。

その修業時代のこと。
今でこそ冷凍でフカヒレは入荷するが、あの当時はフカヒレもツバメの巣もアワビもナマコも、乾物状態から時間をかけて戻した。
戻すにもそれぞれ素材なりの苦労があった。
・ツバメの巣は乾物の中に混ざっていた細かいゴミを爪楊枝でえり分けていた。
・ナマコは油を一切嫌う。油を扱う中華の厨房で、丁寧に丁寧に手を洗ってから下処理をした。水面に少しでも油膜が残るとメチャクチャ怒られていた。

フカヒレは「く」の形をした乾物を、
1、骨が残る部分を中華の出刃包丁でたたき切り落とす。「く」が「✓」の形になる。1階に処理する枚数はだいたい20枚程度。あの当時で1枚2000円~3000円した。今思い出してもかなり大きいフカヒレだった。お店に出すときは3万円程度に変化する。
2、一回お湯を潜らせ、柔らかくなった鮫肌表面の黒い薄皮を亀の子タワシでそぎ落とす。海鮮ものの特有の臭みが調理場じゅうに広がる。
3、一旦洗ったフカヒレを、大きなボールの底にザルを置き、ボール縁に沿って並べる。たっぷりの水を張る。弱火にかける。後は沸騰を待つだけ。
4、沸騰を待つと言ったが沸騰直前で火を止める。煮崩れが起きては商品価値がグーっと下がるからだ。火を止め、水を変える。また火にかける
5、これを一日2回、約10日間かけて、口の中で「くッ」と軽く噛み切れるくらいの柔らかさまで持って行く。
下処理は以上。お客様から注文が来る。
6、調理に使うのは白湯ぱいたん。当時使う調味料は醤油と胡椒だけだった。
7、鍋にネギの香りのついた油を馴染ませ、白湯、フカヒレと置いていく。
8、鍋の中のフカヒレに、フカヒレ脇に滲む白湯をオタマで掬(すく)ってはフカヒレにかけていく。こうしてフカヒレに味を含ませる。
焦げを防ぐために鍋は常に釜の上で回す。時折ネギ油を垂らすようにつぎ足し、フカヒレを鍋肌にそってなめらかに滑らせる。
9、フカヒレ下半身に味が含まれたころ合いを見計らって、鍋を大きく振り回す。フカヒレを空中で一回転させるのだ。
余談だが、この時の調理長が一番かっこよかった。反転させた勢いで煮崩れを起こしてはこれまでの努力が一切無駄になる作業だ。かといってヘラで返すようでは、部下の手前、カッコつかない。まだ職人技が生きていた頃だ。
10、返したフカヒレを同じようにネギ油を鍋肌に回しながら味を含ませていく。
11、別鍋で湯通しした青味(当時は青梗菜か芯取菜)を皿に敷き、かぶせるようにフカヒレを置く。鍋に残った煮詰まったタレをかけて仕上がる。
白湯と醤油が混ざった薄茶色のソースにネギ油の光沢が、実に旨そうに仕上がる。

フカヒレの姿煮、実に手間のかかる料理だ。料理の価格はこの手間代と言っても差し支えない。高級料理店を働いているときには、フカヒレ姿煮あんかけご飯を賄いで食べていた。食べること、味を確かめることが修行のひとつだった。


長い説明文のなかに書いたように、砂糖は一切使っていない。
素材のフカヒレはコラーゲン豊富だが、糖質はない。
なのに糖質量は多い。トロミを引き出す片栗粉に原因がある。
普通の家庭で作るあんかけ料理とプロが作る料理の大きな差に、この片栗粉の使い方がある。
片栗粉の粘度をネギ油で切っていく。白湯を加え、ネギ油で切るという作業を繰り返すことによって、数十年寝かしたようなトローっとしたソースに仕上がってくる。そのソースがフカヒレに絡むことで旨味が二倍、三倍になってくる。

増粘剤は他にもあるが、片栗粉にまさるトロミはない。
結果的に片栗粉は普通の料理のあんかけより多く使う。
糖質が高い理由だ。
でも私は厨房に制限させてない。
ここは料理屋だから、この「美味しさ」は妥協してはいけない場面だと信じているから。

行列

歓ファンの目の前に「博多食堂」という名前のラーメン屋さんが出来た。
昨日グランドオープン。
1日目ラーメン1杯100円、2日目200円、3日目300円という大盤振る舞い!
1日目は30名~40名ほどの行列が11時からほぼ3時間近く並んだ。
すごーい!
2日目は、ちょっと少なく、それでも20名様の行列が開店11時より2時間たった今でも続いている。

車の通りが多い医大通りだが、博多食堂の周りだけは車でなく人が密集している。商店会長としての私、この賑わいはとても嬉しい。

ただ、行列に並ぶというのは私的には好きじゃない。
時間がもったいないと感じる。
30分並んだとして、最低労働賃金1000円(東京都は1014円だが)と計算しても500円を費やす。
ラーメン1杯100円だとしても、30分並ぶことで実質600円のラーメンだ。
さほど安いとは思えない。
ラーメン及びその原材料である小麦や豚骨は無限に生産できるが、時間は有限だ。特に年を取ってくると、時間がとてももったいないと感じる。

一方、お店の立場になって考えてみる。200人の人が一人30分程度並ぶと、200人×500円で10万円でお店の宣伝を担ってくれることになる。
経営者目線で見ると、これはホコホコするくらいうれしい。

小さいころに漢詩の一部を取った
「少年老い易く学成り難し」
と唱えさせられ学んだたことがあった。意味も教えてもらった。
だが、実感として理解できなかった。
あの年齢の時には時間が無限に感じられたからだ。

人生はうまくできてると思う。
時間がたっぷりあるときには、往々にして走った。転んだ。怪我をした。
時間が少なくなってくると、歩みはゆっくりになる。転ぶのをさける歩き方になる。怪我をすると小さな怪我だったはずが大きな怪我になる。

こうしてみると、「行列」は若さの一つの形でもあると思う。
時間を浪費できる余裕があるのだから。