2022年初頭

あけましておめでとうございます。

この歳になると何がおめでたいのか分からなくなります。ひたすら馬齢を重ねるだけで、我ながら新年という新鮮味に欠けるのを感じます。

昨日初詣を済ませました。店舗のある地域の氏神様「西向天神」と住まいの氏神様「花園神社」両方にお参りしました。
西向天神は小高い丘の上にあり、初詣客が二組ほど。この神社、太田道灌の詩「少女花一枝・・・」で知られる碑がまつられていることでも知られていますが、太田道灌を知っている、今の人たちどのくらい居るのやら。
静かなたたずまいを見せるこの神社、ひっそりしてるが、私はとても好きです。
次にお参りした花園神社は正月3日目でも6列縦隊で20列くらい並んでおり、その列の脇から神社に向かって妻と二人で柏手を打ちます。

今年もいろいろありそうです。
年を追う毎に、
(気力体力持つかな?)
という思いが強くなります。

昨年末に大宮市在中の調理長から
「2月20日(給与締日)で退社します。」
理由を聞くと、大宮にある中華料理店の78歳調理長が退社し、その後釜として要請されたとのこと。本人が61歳であり、家から程ない距離であり、身体に負担のかからないようにしたいとのこと。
やむなるべきか。

昨年末より新調理長を知人を通じて募集中。
採用の可否はともかく、さっそく一人は見つかりました。

私のなかでまだ迷っています。
「引け時」「辞め時」が念頭にあります。
このお店の締め時は、65歳を過ぎた頃から漠然と感じてました。
コロナ禍は、その辞め時をさらに強く感じさせられました。
そして今回の調理長退社。

どうなるか私も見当がつきませんが、今年も艱難辛苦が待ち受けているのだろうというのは感じてます。
「艱難辛苦」というより”サプライズ”、”ハプニング”という感じで、私に悲壮感はありません。コロナ禍はそれほど人の無力さを教えてくれました。人智ではどうしようない自然の力という意味で。
良い意味で開き直ってます。

密をやめ、ソーシャルディスタンス。
マスク姿で、アクリル板越しの会話。
どう考えても普通じゃない。
人と人とのふれあいを禁じ、お互いに監視し合うような、ギズギスさ。
そしてそういった風な世間をあきらめたような空気。
日本以上に感染が拡大している海外で、コロナ感染を恐れながらも、それでも人の繋がりを求めているのを、私は羨ましく感じます。

飲食(外食)の醍醐味は、「食」を通じて人と接することにあると考えています。
「食」を通してエネルギーを補給しながら、そこで出会った人たちから「元気」を補給する。
これがなくて、飲食業の意味があるのか、と外食産業に携わっている私の根底に流れている考えです。

美味しいは、作ることや食べることが美味しいから。
美味しいは、作る人や食べてる人が美味しいから。
美味しいは、農業や漁業に携わっている人が美味しいから。
だから、私自身が美味しくなかったら、誰も食べに来ない。
私自身を美味しくしたい。
そのために美味しいことをたくさん知る必要がある。
美味しさを知るためには、たくさんの人と会うしか道はない。

コロナ禍が私に教えてくれたのは、人との関わりだったし、人の温もりだった。

グダグダ長くなりましたが、飲食についての私のこだわりを述べました。
どういう形で決着するかわかりませんが、今年もできうる限り頑張っていきたいと思います。
みなさんの元気を見せ(店)に来てください。