ランチの客数・・・雨も手伝って悪し!
数ヶ月前からランチ数は、徐々にだが良くなってきていた。
厨房に入っていて、さほどお客様の顔は確認してないのだが、コロナ前とすると新顔がだいぶ増えている。むしろ旧来のお客様の比率は小さい。
ま、増減を繰り返しながら増える方向で進むのだろうと思う。手応えを少しずつ感じている。もどかしいくらい「徐々」になのだが。
社員の手前、ここは社長の私がどっしり構えて・・・。
でも、でも、人間がまだまだできてないのだろうな、、、
お客様が少ないと、やはり気持ちは落ち込む。それが私の場合、すぐに顔に出る。つくづく小さい男だな、と我ながら情けなくなる。

パワハラで自殺者が出て、斎藤元彦兵庫県知事が対策に追われているニュースが流れる。副知事が責任の一端を担って辞職。それを持っても知事は辞職しないという。
パワハラの内容も虚実も因果関係もまだまだ不明な点が多い。だからその辺に言及するつもりはないのだが、知事の顔が良くない。嘘は言ってないだろうけど、まだ「本当」を話してない顔だ。
試しに、「斎藤元彦」の画像を検索した。知事になる前と後ではだいぶ顔つきが違う。検索では選挙用ポスターの顔が多く出てきたが、それ以外でも今と昔じゃだいぶ顔が違う。素直さが感じられなくなっている。

顔は私も気にする。他人を見るときになるべく先入観を持たずに見ようと心がけているのだが、それでも好感を持てる顔、持てない顔は無意識に選択している。
自分の中での選択理由はいろいろあるが、正しい根拠はない。
でも、自分の顔も好悪の感情で見られているのだろうな、と思うし、嘘や見栄を張っていると、浅はかな顔に少しずつ変わってくると信じている。
人にわからない嘘でも、それが積み重なってくると、インチキくさい顔に変わってくると。だから些細な嘘もつかないようにしている。

今、斎藤元彦知事は窮地に追い込まれている。絶体絶命のピンチと言っても良いくらいの窮地だと思う。あの顔は、その窮地で逃げている、本当のことを話してない「顔」に、私は見えるのだ。
私もピンチに追い込まれたことは何度もあるし、これからの人生にも1回か2回はあると思う。 その時に逃げない、嘘をつかない「強さ」を私は欲しい。

天網恢々疎にして漏らさず

でもお客様がもっと来ると、心から笑える顔ができるのになぁ





エヌビディア

 新聞やメディアのニュースで「エヌビディア」の単語をよく目にするようになった。
32~34歳ころだったと思う。
パソコンが流行り(?)始めたころだった。
初めて買ったパソコンはNEC のPC98。

当時一番下の子供がどこかの景品でカシオのQV10というデジカメを当てた。レンズ部分がクルクル回る、独自の製品だった。そのカメラで写した人物を画像処理ソフトでパソコンに取り込み、トリミングやデフォルメをグラフィック処理でおこなった。絵画調やパステル風など。あるいは数枚の写真を切り取りコラージュ、それを印刷してお客様にその場でお渡しした。

まだフィルムカメラが主流だった時代、撮った写真をカメラ屋に持って行き現像する時代だった。その時代に10~15分程度で、その場全員を入れ、花束持った主人公を中心に据えたコラージュは画期的だった。

ただパソコンの処理能力が小さいと、パソコンがフリーズしたり、気が遠くなるほど時間がかかった時があった。
それを補ったのが、エヌビディアのCPU(中央演算処理)だった。パソコンのCPUにガッチャと差し込む奴で、劇的に処理能力が上がった。

エヌビディアのCPUはパソコンゲームの処理速度も上げた。
信長の野望、三国志、A列車で行こう・・・
ゲームはソフトのプログラムが大きくなればなるほどメモリや演算処理機能の大きさがもの言う世界だった。

株を買うという知識も金もなかったあの時に、エヌビディアの株をもしも買ってたら・・・・
そんな知識持ってたら、ゲームもしなかったな、きっと。







[フカヒレ姿煮]の姿が見えない

厨房に入っていると、とにかくデスクワークがやりにくい。
油まみれ、水まみれのなかにパソコンはさすがに持ち込めない。
料理を考え試行錯誤する際も、取りあえずのメモは鉛筆かボールペンに紙に頼る。これが一番安全確実なのだ。
そして厨房とホールの境目に、まるで関所のように大きな板がかかっている。
料理を並べたり出したりする時、お客様が帰った後の下げものの置き場とけっこう働き者の「板」なのだが、厨房への上がり口が30センチほどの高さで2段になっているために、人は屈んで出入りする。身体が柔らい若い時はともかく凝り固まった老体にはかなりきつい。簡単に出たり入ったりできないのだ。

食材が毎週のように値上がりする。小幅でもこう頻繁に値上がりすると馬鹿にならない。原価率維持は非常に苦労する。
で、メニューを少しいじりたいのだ。新メニューもある。だが、食材を揃え、料理を作り、作った料理の写真を撮り、そのメニューの構成を考えたり、試し印刷をかけたりと、厨房への出たり入ったリが非常に億劫なのだ。
ネットへの変更処置もある。こういう作業のできるのは私しかいない。

そういう作業を予想しただけで気持ちはネガティブになる。という言い分けでお店のホームページもメニューもコロナ前から何も変わっていない。
コロナ前のコース料理は4000円でフカヒレ姿煮がついていた。食材高騰の折4000円や5000円での姿煮はもはや不可能!

でも、でも、そういう事を知らないお客様から問い合わせは何度も来る。その都度ホールの担当者は苦しい言い分けをお客様に伝える。

どうにかならないものか・・・・・・。
雨のない梅雨空だが、うっとうしい日々は続く。


北京ダック

少しずつ忙しくなってきたようだ。
予約が増えてきた。まだ”猛暑”や”酷暑”という暑さが来てないせいかと思えるが、毎年秋口になるまで営業的な閑散期に入る。が、手応えが少しずつ感じる。喜ばしい限り。売上的にもう少し増えると資金的な余裕が出来るはずだ。が、そうなると体力や、お店としてお客様に提供できる能力が厳しくなってくるかもしれない。自分の中で弱気と強気が交互に出てくる。

前勤務先であった頃から、そして歓ファンのオープン当初から来店されてるお客様の誕生日がお店であった。だから20年以上かよっていらっしゃるお客様だ。鍼灸師をされている。そのお弟子さんたちがサプライズで北京ダックをと注文された。
年に数回北京ダックの注文が入るが、歓ファンの北京ダックは焼かない。オーブンはあるが焼き釜のないのが大きな理由だ。歓ファンでは大きな鍋で揚げて仕上げる。
前勤務先では、約30年ほど前は北京ダックは生のアヒルから仕込んでいった。予約の日の三日前に届くように手配する。毛を取った生のアヒルが業者から届くと、アヒルのお尻に口をつけ大きく膨らませる。膨らんだアヒルを沸騰したお湯に浸し表面の雑菌を取り、そこへ蜂蜜、水飴、醋を混ぜた液を塗る。表面をパリパリに張らせるためだ。そうしたアヒルを三日ほど風通しの良いところでさらす。
前勤務先は2階にあった。その階段の途中にぶら下げていた。階段を上がってくるお客様にはビックリだったろうと思う。冬場は問題なかったが夏の暑い盛りにはそのアヒルは腐敗した。ハエがたかった。腐臭もした。
ご存知のように北京ダックは皮を食べる料理だ。時代的にもそういうことが許容される時代だった。逆にお店の「本物志向」がウリになった。
予約されるお客様が来て、北京ダックの順番が近くなると厨房では大きな鍋でアヒルを揚げ始める。
鍋の中では画像のようにきつね色に仕上げていく。時折アヒルを突いて皮の張り具合を確かめる。

北京ダックの美味しさは、皮の張り具合と香ばしさ、そしてミソの甘さの交叉した味だ。それを皮に包んで食する。
揚げる段階こそ厨房だが、揚がったアヒルをお客様の目の前で捌く。一種のパフォーマンスにお客様の視線は集まる。

今では生のアヒルから仕上げるお店を私は知らない。この方法を知っている職人も少なくなったと思う。揚げるだけのアヒルを業者は持ってくる。前述の蜂蜜を塗るのは、時としてムラがあり、当然のように蜂蜜の薄い部分は焼き色が薄くなった。そういう失敗は現代はなくなった。
それでもお客様の目の前で切り分けるパフォーマンスをやるお店はそうざらにないと思う。
北京ダックのご注文お待ちしております。

かくして誕生日の一つのイベントとなる。










ワンオペ

相棒の女性が法事で土曜日休ませてくれと言ってきた。
何の問題もない。率直にOKした。
6月2日(土)は予約は夜1組。土曜ランチはいつもさほど混まない。
多くても20名様程度。
たまにはいいか、その程度はやれるか、と一人で営業することに決めた。
一人でやることを知った、相棒の女性も妻も心配そうな顔をする。
「大丈夫?」
「間に合いそうもなかったらお客さん断るから。」

一人、ヤキソバ。一人、チャーハン。
続いてお二人。
オーダーはA定食(青椒肉絲)と担々麺。
「あ、それと、チマキを買いに来たんですけど・・・。」
「冷たいチマキですか?それとも暖めますか?」
「贈り物なので冷たいままでけっこうです。」
そのまま包めば良いことなので、楽勝だ。

厨房に入り、お湯の費を大きくしながら、A定食を準備・・・・
あ、その前にお盆にセット(全ての注文にサラダ、杏仁豆腐、お新香がつき、箸、デザートスプーンを置いて完成)しなきゃ。

ん?入口に人が立っている。お客様だ。
「いらっしゃいませぇ」
「表の看板、準備中ですよ。営業してますか?」
後にぞろぞろ人がいる。
キター!

「営業してます。何名様ですか?」
「5人です。」
「ワンオペなんで、準備中と言うことでお客様制限をしようかと。料理の出が少々遅れてもかまいませんか。」
「大丈夫ですよ。」
さあ、戦闘開始だ。
おしぼり、お茶を準備

最初の焼きソバ、チャーハンを食べているお客様も、今しがたチマキを注文されたお客様も(どうするんだろう?)という心配顔で私を見ている。
「注文良いですか?」
「焼きソバ3個と、A定食、マーラー麺お願いします。
(ん、注文、同じ商品にしてくれ・・・)とは口が裂けても言えない。
「ありがとうございます。」

頭はフル回転。できるだけ無駄な動きを避ける。
「段取り七部、仕事三部」
口元で唱えながら準備を進める。
さあ、準備は整った。あとは釜の前に行って料理を作るのみ!
と、腹に力を入れた瞬間、新規のお客様が目に飛び込んでくる。
あ、住んでいるマンションの大家さんだ。これは断れない。でもワガママは利く。
「時間かかっても大丈夫ですか?」
イヤとはいわせない。
と、話している背中で、
「カウンターの上に置いてある冷茶は私たちのものですよね。」
5人組のお客様が、トレンチに用意したお茶を見つけて取りに行こうとする。
「あ、スミマセン。用意はしたんですが、持って行くの忘れてました。」
「大丈夫ですよ。」
お客様との共同作業になってきた。

大家さんは三人組。
「注文だけするわよ。私はトロトロ冷やし。」
一番手間がかかる季節商品、だからわざとメニューは出してなかった。先日召し上がったのが美味しかったからと知人を誘って来店された模様。
が、残りの二人はA定食、B定食・・・。
うん、うん、こんな時は同じオーダーに・・・と、またまた口に出そうだったがこらえた。

厨房に飛んで戻った。待ってくれると言ってもお腹が空いているときの待たせる時間は経つのが早い。もう一石の余裕もできない。

わずかだが、同じオーダーがある。まとめて作らなくて何ぞや!
手早く準備する。
もう一度釜の前に立つ。火は全開。炎の調理人になる。

セットしたお盆に出来上がった料理を置く。スープを注ぐ。ライスを盛る。
スープなどちょっとでもこぼしたら、入れ直すのはもちろんのこと、こぼした個所を”拭く”という余計な仕事が増える。早くやる部分と慎重にやる部分と硬軟をつける。
「お待ちどおさま。」
5名様の配膳が済む。
と新たなお客様だ。
(あ、ちょっと難しいお客様だ。)
ふだんだったらどうって事ない70歳半ばのご夫婦なのだが、細かい注文が多いお客様だ。
「時間、大丈夫ですよね。ゆっくりしていってください。」
「今日、私一人だから、かまってられないです。」とは絶対に言えないが、細かい注文も今日はダメ!、との「押さえ」を含む口調で話す。
奥様が「大丈夫よ。」と旦那をなだめる役を買ってくれる。
旦那は
「早くできるものだったら何でもいいよ。」
そういう問題じゃない。でも出来上がった料理を運ぶの先決だ。
「はい、はい、ありがとうございます。」

手際は悪くない。順調に料理を出し終わった。最後のご夫婦の料理だ。
海鮮焼きソバを作った。いつもよりエビイカを多く入れる。
作ってご夫婦に配膳を終わってから、まだお茶が出てないことに気がつく。
老夫婦だ。
「温かいお茶で良いですよね。」
と持って行った後で有無を言わせないセリフ。
「おうおう。」
いつもは一言二言嫌みをいう旦那が素直に応じる。
「店長、お店の中走ってたね。」
「店長、若いねぇ。」
と奥様。
ハァハァ。
気がつけば、息も上がっていれば、背中には汗も掻いている。

瞬間的に動けるのはわかったが、最大の誤算は自分の歳を計算に入れてなかった。


パンツ少ないわよ

「パンツ少ないわょ!」
そんな声で目を覚ます。
はぁ?

ヒドく酔っ払ったときは別だが、風呂嫌いだった私も寄る年波にいつしかほぼ毎日風呂にはつかるようになった。そして風呂に入るたびに下着は毎回取り替える。
「どっかそこへんにあるだろう。」
「ないから言ってるの!」
そんなに大問題か、大声で、人の眠りを妨げるような問題か・・。
「知らんよ。」
「どう数えても1枚足りないよ。」
「パンツの枚数なんか知らん。だからどうした。」
もう相手にしてられない。もう一回寝たい、そんな欲求で答えもつっけんどんになる。
半分もう一度の眠りにつきながら
(女って自分の下着ならいざ知らず、亭主のパンツの枚数まで勘定に入れてるのか・・。不思議な動物だな・・・・。)
というのと、
(パンツ、どこに置いたっけ、はて?風呂場脇のバスケットの中に放りこんだはずのパンツが行くとしたら、どこ?)
そんな女に対しての思わくと、喪失しただろうパンツの行方を推理しながら・・
まあ、また起きてから考えてみるか・・・

いつしかまた寝ていた。

身延山

昨年6月、仕事上の私の恩師とも呼べる方が亡くなった。
葬儀にはもちろん出席させていただいたが、納骨などその後は何も関われなかった。仕事から離れられなかったこともあり、とにかく時間を作れなかった。
その方の信仰が日蓮宗と言うこともあり、お墓は身延山に納められたと遺族から聞いた。

ゴールデンウイーク。どこかに出かける当てもなかった。
ふと思いついて、墓参りを決め込む。日帰りでゴールデンウィークの中日だと混雑もさほどではないだろうという読みだった。
5月4日、カーシェアリングで車を手配した。妻はお昼までパートだったためにそれを待ち、出発はお昼過ぎの13時30分。

予約する時にドラレコに予定地をインプット。ETCカードを装着。
自動音声が予定地までの高速料金を読み上げる。
「料金は5千○○円です。」
(えっ?ちょっと高くない?)
ドラレコに身延町は入れたが、全体地図や行程は頭に入れてなかった。
後ほど地図で確認したとき、数個の高速道路の乗り入れがあり、料金の高さが理解できた。
行きは道路も混んでなく順調に進む。
ガソリンが少ないことに気がつく。メーターはゼロに近い。
途中のインターチェンジでいったん降りてガソリンスタンドを探す。
甲府市からの高速道路は片道1車線になる。軽の冷凍車を先頭に車の流れは低速になる。乗車時間は4時間を過ぎていた。途中の食事や給油を含めて、予定以上に時間オーバー。止むなしか。

身延町に着く。典型的な門前町。あちこちに寺社があり、お土産屋も散見する。町は身延山麓にあり、道は起伏に富む。ドラレコに従って車を走らせるが、同じ所を何回も走る錯覚を覚える。不安に駆られ、数回車を降りて目的地「妙石房」を聞いた。みんな親切に教えてくれるのだが、教えてくれる目印が微妙なのだ。川沿いに何カ所もかけてあった橋だとか、すぐ右折だとか・・・。おそらくここだろうと思わせる地点でも「すぐ右折」の選択肢が2個か3個ある。

やがて迷った。「ポツンと一軒家」に出てくる、車一台がやっと通れる半未舗装の山道にかかる。ドラレコでは道表示のないところに車の所在がある。
「鹿がいる!」
言われた方向には二頭の鹿がこちらを珍しそうに見ていた。数秒後には藪中に消えていく。野生の鹿なのだろうが、20代の頃の鹿児島で見た光景が蘇る。
(え、そういうとこ、ここ?)
ドラレコには道は映っていない。
助手席の妻は、
「ねぇ、大丈夫?引き返そうよ。」
「ねぇ、落っこちない?怖いよ。」
狭い道の運転は自信があるし、車は小さい。道の状態はおそらく一日に数台の車が通っているだろう形跡が残っている。行けるはずだ。突き当たりの道でもないはずだ。夕方5時くらいでまだ明るい。
と、走っている内にいつしか元の広い道に戻っていった。
ドラレコにも道路上に車があった。

内心ホッとする。
広い道に出たところでまた人に聞いた。
聞いたとおりに行くと、寺社及び民家が3軒ほど並んで建っていた。が「妙石房」はない。そこで子供と遊んでいる男性がいて、また聞いた。
「この道をまっすぐ5分ほど行くと目的地です。」
さらに進んだ。
教えて貰った道、1分も経たないうちに車が一台通れるトンネルが出てきた。トンネルの手前には脇道もある。
トンネルをくぐるのだったら、きっと教えてくれてただろうが、トンネルの有無は話さなかった。が、トンネル道はまっすぐ方向なのだ。
墓参りだけをすませて帰るつもりだったが、ここまで来たらと初めて「妙石房」に電話を入れた。
トンネルは進む方向だった。
トンネルを抜けると砂利道。ジャリジャリ音を立てながら林の中を走らせる。
妙石房にようやくたどり着く。住職が玄関前に出て迎えてくれていた。
住職にお墓まで案内して貰った。

墓石を前に二人でかがみ手を合わせて拝む。
が、拝んだ心の言葉は
(えらいところに墓を作りましたね。よくこんな場所を見つけましたね。)
と供養は後回しだった。

後ろに控えた住職とはもっと話したかったが、5分ほど話したら、帰り時間(車返却時間)が気になってくる。再訪を約束して妙石房に別れを告げる。

帰りも割とスムーズに晋かと思えた矢先、小仏トンネルで事故情報。片側二車線の一つが不通との情報。同時に極端な渋滞に陥った。小仏トンネルまでのパーキングエリアもサービスエリアもたぶんトイレ目的だと思える車で側道までがこれまた渋滞。

おかげさまでカーシェアリングも1時間ずつの4回延長。帰り着いたの深夜の12時近く。
ま、疲れたけど 故人のお守りのせいで 事故もおこさずおきずのほぼ11時間でした。







中国産

20歳の頃から中国料理の世界に身を置きもう50年が経つ。
料理が好きだったわけでもなかったのに実に半世紀。
中国料理の職人だった期間はほぼ17年。ホールの接客にコンバートされ店長として10年。そのお店がなくなったことがきっかけで独立を目ざして準備期間が3年。この地域で独立開業して20年。大雑把だがこんな感じになる。

職人だった時代、ある程度の技術が備わった時期から、師匠と呼ぶ方がいて、その方の指示のもといろいろなお店に関わった。
中華料理の世界だけなのかも知れないが、中華食材はほぼ必ずと行っても良いくらい加熱消毒を行ってから調理に入る。
筍など、どのお店でも竹皮をむいた状態のモノが缶詰として入荷されていた。それを一回ボイルした上でスライスしたり細切りにして使用していた。最近ではスライスしたものや細切りした筍が入荷しているのだが、加熱消毒は必ず行う。缶詰に限らず真空パックした素材や冷凍物も産地が中国産と書いてあれば必ず熱消毒する。50年ほど昔からそういう風にするモノだと教わってきた。

数年前に社員旅行で香港に行ったことがある。二泊三日の短い期間ではあったが、本場の料理は行く前から楽しみだったし勉強になるとワクワクしていた。
行って胃袋の許す限りあちこちのお店をまわった。連れて行った社員も同様だったと思う。
どのお店も美味しかったし、驚きもあったし、初めて味わうモノもたくさんあった。勉強になった。
ただ気になったことが一つ。テーブルにつくと必ずお湯が提供された。どのお店に行ってもだ。最初は意味がわからなかった。
香港で同行してくれた方が居た。日本人女性と結婚した香港人だ。日本にも長く滞在しており日本の大手証券会社の社員でもあった。
その方に聞いた。
箸やスプーン、場合によっては取り皿までもお湯をくぐらせて熱消毒をするんだそうだ。
えっ?
香港のお店のホールスタッフはそのお湯を臆面もなく持ってくる。いわばカトラリー(食卓で使用する箸、ナイフ、フォークなど)は汚れているので洗ってくださいとでも伝えているようだ。中国ではごく日常なのだと教えてくれた。

遠慮なく言わせてもらえば、中国人が 同じ同胞の中国人を、仕事を信じてないのだ。見た目や利益が優先し、品質は後回しになるのを知っているのだ。

そういえば中国料理で有名な上海カニ。季節は9月~11月にかけて出回る。上海カニの蒸し料理は大丈夫だが、生きた上海カニを紹興酒につけた「酔っぱらい蟹」はお薦めできない。養殖する湖は汚染度がひどいと聞く。その上海蟹を売りつけに来る輸入業者(中国人及び中国商社)の売り文句がすごい。
「去年の品質検査は18項目でしたが、今年は22品目の検査をしています。だから去年より少し高くなりました。」
と、したり顔で話す。
(馬鹿言ってるんじゃないぞ。日本の蟹は検査しなくたってそのまんま食べられるぞ。何を威張って値段をつり上げるんだ!)
と、私の心の中。
ただでさえ(?)高い上海蟹、ここ数年、歓では上海蟹をメニューとして出してない。

中国と日本では衛生観念が根本的に違う。
50年ほど中華料理に勤しんできたが、この点だけはなじめなかった。








朝起きると身体が重い。
いつもの朝を迎えているのだが、身体がだるい。数日前から顔がむくむ。
飲み過ぎかも知れぬ。杯はさほど重ねていないが、ほぼ連日だ。
何か身体に変化が起きたのかな、と少し気になる。が、おそらく歳のせいと自分に言い聞かせる。

朝はすぐに仕事が始まる。厨房はほぼ一人仕事。発注、仕入れ、仕込み、全てを自分で仕切らなければならない。ま、ここは普通に仕事として許容範囲なのだが、負担になるのが、メニュー考案、作製、ともなう材料選定だ。
スマホに入れた予約を確認する。そのお客様の情報をできうる限り思い浮かべる。年齢、人数、予算はともかく、前回の料理、好み、冷蔵庫にある材料の多寡・・。
たくさんの情報が頭の中をよぎる。その情報を紙媒体であれ、スマホであれ、パソコンであれ、なるべく記録するようにしている。
忘れるのだ。早いときには数分で(あれ?)という状態になってしまう。
いつしかそういう自分にも慣れてきて、記録するのもさほど億劫でなくなってきた。

3月20日の売上累計が初めて対前年比を上回った。コロナ禍が明けて世間の日常は徐々に普通の日常に戻っていると聞く。そう思う。そう感じる。が、売上の数値は通常になかなか戻ってこなかった。
三月という歓送迎会シーズンも手伝ったのだろうが、ようやく数値として上向いてきた。
まだまだなのだが、瞬間的な売上増なのかも知れないが、気持ち的にホッとする。このまま月末まで延びて欲しいと切に願う。

春。いつもより身体が重い。だるい。自分でも顔のむくみがわかる。
春。風が強い。突風が、運転するバイクを身体もろとも運び去ろうとする。
春。シーズンも手伝ってお客様の増えた様が数値に表れる。
春。いろいろな変化に、ようやく新しい年の息吹を感じられるようなった。きっと来年の春は身体がもっと重くなるだろうに。それでも、春、来て欲しい。



ピアノの鍵盤

四谷飲食業喫茶組合という飲食店専用の健保組合がある。
私が加入している団体は戦後出来たらしいのだが、その生い立ちを私は知らない。ただ健康保険や厚生年金を代理でやってくれるために、私にとってはありがたい組織だ。前勤務先から加入しており、私が独立してからも会社として加入した。おつきあいは30年を優に越える。

私は単なる一会員としてずーっとおつきあいしていたのだが、この組織も例に違わず高齢化が進んでいた。気がつけば70歳の私が最若手の一人になっていた。
会員数が少なくなり、高齢化が進み、でも会計や年一の旅行積み立てなど執行部のやることはけっこう煩雑で多岐にわたる。

ある日、この会の会長から上部組織になる東京都飲食組合の総会に出てくれと頼まれた。何年もおつきあいしているのにこの会に何も貢献してないことが私は少し負い目になっていた。
引き受けた。

以後、この上部組織の会合が年に数回あり、出席することになる。
いつも銀座の東武ホテルだ。会の後には懇親会がある。パーティはドレスコードがあってもおかしくないくらい気品がある会場だ。当然相応する料理も出てくる。
会員が飲食店に関わる方たちが中心のため、会の開始は14時30分など、繁忙期を外して始まる。

この日は総会。決算が行われ、事業案が発表され、ともなう予算も説明がある。
ちゃんとした会合なのだ。そして総会終了後は隣室に設けてある懇親会。平日のため総会終了で帰る方も多かったが、私は残って料理を楽しんだ。
こういう会は料理も手の込んだものが出てくる。それが見たかった。食べたかった。だからというわけでもないが、アルコールは乾杯ビールを半分程度、他の飲み物もかなりおさえた。

この日の私はお腹の調子がちょっと良くなかった。
おならがプーピー出てくるのだ。トイレに行ってもおならは絶好調を維持していた。食事の最中もチョコチョコ音無しの構えで出てくる。匂いがないのが幸いだった。が、かなりの頻度で出てくる。途中、何度もトイレに・・・と思ったが、会話が弾んでいる状況で行くタイミングを失っていた。

そうするうちに夕方の5時になり閉会。
銀座から新宿のお店に戻るまでの所要時間は30分強。
直行すれば5時半にはお店に戻れる。開店時間を30分ずらすと留守居の女性に
昨夜から 頼んでいた。

東武ホテルを出て丸ノ内線「銀座」駅に向かう。ホテルから駅まで距離にして500mほど。人混みを避けるために地下道を歩く。丸ノ内線の改札口も地下道の延長にある。

ご存知だと思うが、銀座の地下道は東京駅にも皇居近くも日比谷公園にも繋がっている。複雑で巨大な地下街だ。それも曲がりくねっているだけでなく上に下にのアップダウンもある。短めの階段があちこちにある。

階段を駆け上がるときに、来たぁ!屁だ。
一段上がるごとに
パ、ピ、プ、パ、ポ
と短めの音が連発で出た。階段がピアノの鍵盤だ。
あっ・・
と後ろを振り返ったが、誰もいない。
ホッとする。
視線を感じ、後ろから顔を横に向けると、反対側に階段を下っている人がこちらを見ている。
(あは、聞こえてた・・・)
その人、笑うでもなく怒るでもなく足を止めて私の顔を直視している。

決まり悪くなった私、その人を置いていくように改札口への足を速めた。
残った階段を駆け上がる。

鍵盤を踏んだ足は、また音を出した。
ぷ、ぴ・・・・。