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手術


看護婦が車椅子を持って迎えに来た。大仰なと思ったが素直に従う。点滴液がつながったポールを右手に、その車椅子を若い看護師が押していく。

東京医大は新築になってまだ真新しい。その綺麗な病棟の中を、車輪がきれいな床に時折キュッキュッと音を鳴らしながら、11階病棟から5階の手術室に向かう。
コロナも手伝っているのだろう、院内で行き交う人はまばらだ。

手術室は私が想像したような無影灯はなかった。眼の手術室のためだろう。
腕に血圧計が巻かれ、指先に血糖値を測る機会、そして胸には心拍数路を測るポッチがつけられた。
うん、うん、手術室らしくなった。
手術する眼の部分だけ穴の空いた布らしきものが顔に被せられた。
お、お、ちょっと!これは息苦しい!
これには、心中かなり焦った。同時に心拍数も自覚できるくらいに上がる。

「はい、大きく目を開けて下さい。」
先生はこちらの気持ちはお構いなく仕事をこなしていく。
眼光を開く薬だろうか、麻酔だろうか、2種類の目薬を刺す。
「少し痛みますよ。」
少しじゃなかった。反応し身体がのけぞる。
「動かないで!我慢して!」
はい・・・。
もうまな板の上の鯉だ。

眼上の、血痕らしき黒い影が幾何学模様にいろいろと変化する。
(これからどうなる?)
と、なるべくつぶさに記憶に残そうと努力するのだが、それよりも布の息苦しさと眼をくり抜かれそうな恐怖に耐えるのが精一杯。

手術室を出たのは45分程度だったが、手術そのものはおよそ20分ほど。
が、疲れた・・・。
眼を抑える布(眼帯)が、今は心地よい。

「今日だけはうつ伏せになって寝て下さい。」
30代と思える先生は、もう何例も手術をこなしているのだろう、慣れた口調で私を手術室から追いやる。
「次の患者さんを連れてきて。」
私の背中に、看護婦に伝える指示の声が届く。

網膜剥離

前回の続きだ。

貰った紹介状で、朝9時に大久保病院に行く。
緑内障でレーザー照射治療をしたのもこの病院だったが、診療カードは紛失。
なんせ10年ほど前のことだし・・・。
でも受付で念押しされる。
「永久的に使えますから取って置いてくださいね。」

大久保病院では、主に視力や眼底検査、眼の周りの検査がほとんどだった。
それでも9時頃から11時半頃までかかる。
年配の女医さんが
「東京医大を紹介します。今すぐに行ってください。タクシー使われた方がいいですね。」
はあ?
歩いて行ってもおかしくないぐらいの距離。なんてたって東京医大は西新宿。大久保病院は歌舞伎町にある。隣町に等しい。それをタクシー?

「急患あつかいです。紹介状にもそう書きました。」
えっ?オレってそんなに悪いの!

仰せの通りタクシーで東京医大に向かう。
数年前に新しくなったばかりの、ピッカピカの病院だ。

初めてなので、視力検査から、採尿、採血、心電図、レントゲン・・・。
様々な検査を受けた。
途中であちこちから電話があるが、緊急を除いて一切無視。

結果発表。
「手術は7日ですね。入院は三泊四日。10日に退院して貰います。」
「網膜剥離です。網膜に亀裂が入り、そこから血が眼底に流れ出ています。」
「網膜を支えている部分が耐えられなくなっています。重力で網膜が剥げ落ちてきています。」
説明だけを聞いていると、何だかすごい。
けど、痛みは全くない。視力障害という前方が見えないだけだ。
だから、逼迫感がない。
説明を聞いていても
(あ、そう)
何か人ごとの様に坦々と聞いている。
入院ねぇ・・・・。
コロナというご時世柄、面会、付き添いはお断りしてます。
(こっちの方がよっぽどたいへんじゃないか。)
3日間の入院生活で持って行くものを考えるだけで、入院がめんどくさくなる。

ということで、7日から三泊四日の外泊をします。
眼の手術だから、眼の周りにぐるぐる包帯など巻かれたらどうしよう。
本やゲームや・・持って行けるのかな。
時間をどうやって潰そうか。





眼上の敵

墨汁を垂らし。
墨汁を散らし。
芸術的にも幾何学模様の墨絵が目の前に広がる。

あ 何だ  見にくい。
眼に、眼の前の景色に冒頭の墨汁模様が広がる。
墨汁の線は細い。細いが視線を動かすたびに墨汁模様も眼球の上を動き回る。

ちょっとちょっと・・・
これじゃ見えないよ・・・

10年以上前に煩った緑内障を思い出す。
あの時は眼球に円状の黒い膜が広がり、正面だけが見えなかった。
当時板橋区に居を構え、新宿まで自転車通勤をしていた頃だった。
正面の信号機が見えない。周りは見えるのに、1センチか2センチの黒い丸が真正面の視界を塞ぐ。焦った。
あわてて眼科に行った。
緑内障と判断された。
眼球にレーザーを照射され、目がチリチリと焼ける。
めちゃくちゃ痛かった。
が、手術の間はまばたきが出来ないようにまぶたを固定され、それがまた痛く、涙ボロボロで手術を受けた。

それを思い出した。
今回はそれよりも弱く、冒頭に書いた墨汁を散らした感じなのだ。
が、これじゃ危なくってバイクに乗れない。

急遽知り合いの眼科に予約を入れ、走った。
1時間ほどの診察の結果、眼球に二個所の亀裂があり、そこから血が滲んでいるとのこと。自分のことなのだが、聞くだけで痛々しい。(実際は痛みはない。)

その先生が大きな病院の予約を入れてくれた。
目の中のコーキング手術だ。
これから行く。
コロナでまだランチのお客様は戻ってこない。
なんとか私抜きでも稼働するだろう。
今は、バイクを乗り回せる視力を戻すことが先決だ。


前述の眼科の先生に聞いた。
どういう手術になりますか。
「手術は亀裂の入った部分を、何らかの物質で埋め、コーキングします。」
原因は何ですか。
「老化です。」
との簡単な返事が速効で戻ってきた。
どれくらいで直りますか?
「1ヶ月ほど見た方が良いですね。」

こうやって、この文章を打ち込むのも、ほぼ左目だけで判読しながら打ち込んでいる。この左目も強度の乱視なのだ。パソコン画面に顔を寄せつつ、左右に顔をふりふり、視線と同時に動く黒影の合間に見える字を追い判断している。

芸術の秋。めっちゃ、疲れる。

同窓会

郷里鹿児島の高校の同窓会を毎年11月に開催していた。
高校全体の同窓会ではなく、私たち年代の、同じ窓から同じ景色を同時に見ていた、まさに同窓会だ。

何年前だったか、初回の開催日が11月11日だったために「1111会」と称するようになった。
場所は常にこの歓ファンだ。場所が固定できていただけでも同窓会をやりやすかったのだろうと思う。
幹事は途中から交代制になり、幹事になったメンバーに私からお節を贈った。
本来ならお店の利益に通じる幹事は私が引き受けてもおかしくない。それを他の同級生に幹事を押しつけたことに対しての感謝だった。
けっして安くないお節だったのだが、でもそれがいつしか私の励みにもなった。

その同窓会がコロナ禍で2回中止になった。
ま、しょうがないな、と諦めていたのだが、三回目の今年も
「中止になるかも。」
と幹事の一人から電話があった。コロナの再拡大の影響だ。
私の口からついつい本音が漏れた。
「やろうよ。でないと来年ここで開催できるかどうか、お店があるかどうかわかんないよ。」
同窓会や商店会など私が関係していて、多少なりとも利益が出るお店の利用は「私のお店を使って。」とは私は言えない。 そこのところは常に控えめだった。

同窓会が中止と決まったわけではないのだが、今回はやって欲しいと切実に思う。
いつしか私のモチベーションになり、
(よし、同窓会があるまでは踏んばるぞ!)
と気持ちを強くしていた。
年齢的、体力的、資金的にけっこう追い込まれて始めている今年は、その頑張るモチベーションがいつもより欲しい。

現状は、それほどギリギリで踏ん張っているのだ。経営者としての私の気持ちに、強気と弱気が交互に襲ってくる。

もうちょっとだけ頑張ってみようか・・・。
そういう気持ちにさせてくれる同窓会、なんとかならないものかねぇ。








コロナの治し方

知人のフェイスブックから流れてきた。

コロナの治し方
1、まずテレビを切る。
2、栄養豊富な食事と運動。
3、何があっても”コロナ検査”を受けない。
4、顔用オムツをつけない。
5、風邪orインフルっぽい症状が出たら、風邪orインフルだと考えていつも通りに対応する。

確かにこれだけのことで、一連の騒動は完全に収束すると思う。






冷蔵庫

冷蔵庫の調子が悪い。
自宅に置いてある冷蔵庫のことだ。
冷えすぎて冷蔵室にあるもののほとんどが凍ってしまうのだ。
ダイヤルは高め一杯に回してあるのに。
上から冷蔵、冷凍、冷蔵(野菜置き)と三段に分かれている。
かろうじて野菜置きだけが凍らない。
冷えないよりはマシだから、そのままでもいいかとも思ったが。
子供たちが3名同居していた頃に買ったものだから15年ほど経っている。
冷蔵庫の年齢に換算すると初老といったところか。

「見るだけだよ。まだ買わないからね。」
と妻から念押しされ、夫婦で日曜日のビックカメラに行った。
子供たちが独立し、妻と二人だけの部屋。
「大きいの要らない。300cc未満・・・」
二人で見繕う。が、本日の購入予定はない。購入であれば即断するのだが。

圧倒的に若い人たちが多い。それも男女ペアだ。
たぶんこれから家庭を作る人たちだろうと、簡単に推測できる雰囲気をどのカップルも漂わせている。
こんな場所に来ちゃいけない感じで、私たち夫婦が見事に浮き上がっている。
これから家庭を作っていくのだろう二人が、大きな冷蔵庫を品定め。
(そうだろう、そうだろう!二人の胃袋だってまだまだ大きいし、これから胃袋の数(子供)も増えていくだろうから、大きい冷蔵庫、絶対必要だよね。)
その若さと対照的な立ち位置にいる私たちに、ここでも寄る年波を感じてしまう。


「見るだけ」はやがて飽きて、私はオーブンレンジやミキサーなど他の調理家電を見て回る。
熱心に冷蔵庫を見ていた妻が、私のそばに近寄ってきた。
少し怒った口調で
「ねぇ、私じゃ(高額商品を)決めきれないから、いっしょに来たのに!」
「えっ、今日買いだったの?、だったら、すぐ決めるけど・・。」
「いや、今日じゃないけど・・・・。」

冷蔵庫も私たち夫婦も「ポンコツ」と呼ばれる日は近い。

5時を回ってる!

スマホにアナログ表示されている時計は夕方の5時半ころを指している。
ランチが終わって、お店から100mほどの距離にある自宅へ帰り、しばしの休息を取っていた。そしていつの間にか寝ていたらしい。

(やばっ、お店に出かけなきゃ!)
ん?
枕元に置いてはずのシャツがない。脱いだ靴下も見あたらない。
テレビが置いてあり、妻がいるはずの部屋に行く。
寝ていた。
「まだ寝てんのかぁ!」

起き上がってからの私の行動は早い。風呂場近くの洗い物を投げ入れるカゴから取り出しシャツを着る。
(ん?何でおれはまた着るはずのシャツを洗い物カゴにいれたんだっけ?)
小さな疑問が湧くも、店に行く時間にせかされて、疑問を頭の隅にしまう。

釣り銭や書類、印鑑類をしまってあるバッグを肩からかけ、玄関に。
(ん?休息を取りに帰ったのに、なんでバッグを持って帰ったっけ?)
またまた小さな疑問を頭の隅に押し込む。

靴を履きながら、階段に向かいながら、階段を降りながら、今日のディナーの予約を思い出そうとした。
(ん?そもそも予約があったっけ?)
夜の予約は予約帳を見ながら朝一番で確認する。
その確認する場面を思い出さない。
出勤は私が一番早い。朝一番で全てのガスレンジに着火し、スープを湧かし、お茶を沸かし、表のゴミ箱を厨房に運び、と数多の準備をするのだが、その日の記憶が出てこない。

お店に着くまでのほぼ100メートル間、懸命に思い出そうとする。
どうしても思い出さない。

いっしょにランチで働く女性がいる。ランチにいらっしゃるお客様には懇意にしている方も少なからずいる。
その相棒の女性やお客様との言葉のキャッチボールがひとつも出てこない。

(えっ、おれって、ボケてきたぁ?)
(記憶障害?)
(それってもしかして前日の飲み過ぎ?)
(いやいや、確か5杯しか飲んでないッし・・・・)
ありとあらゆる可能性を頭の中で探す。
陽は差てないが、夕暮れでぼやっとした陽気で、蒸し暑く・・・・。
ん?ん?ん?

そこでハタッとひとつの可能性に気がついた。
もしかして、今、朝の5時半!

店の前に来て、バイクが閉店後の定位置に止めてあるのを見て
(ああ!、今って、やっぱり朝の5時半だ。)
ドアに鍵がかかっているのをみて、朝刊がポストにあるのを見て、朝の5時半だと確認できた。
寝ぼけてたけど、ボケちゃいなかっった。
ホッとすると同時に、妻から電話がかかってきた。

劇オコで

何なのよ!
朝っぱら早くから人を起こして、「まだ寝てんのか!」ってどういう意味?

マスゴミ

マスコミではなく、本当に「マスゴミ」だと思う。

【国内の新規感染者数135,598名。日曜日で最多。】
とのTBSニュース。
日本の感染者数が世界最多になった。

重症者数や死者数は日本が最も少ないのにもかかわらず、センセーショナルな文句を並べる。
何がしたいんだ、何を訴えたいんだ、と痛烈に思う。

まず「飲食店」が真っ先にやり玉になり、「新宿」という地域もコロナの発生源みたいに扱われた。
このところの万単位の感染者数に、予約はキャンセルの嵐、ランチ数も休んだ方が良いくらいに激減している。
残っていた資金が、文字通り湯水のように消滅していく。
ドキドキしながら
(ヤバい!)
内心で連呼する。

近隣のお店が全部同じなのだ。
酒屋や八百屋など業者に聞く。
「ヒドいですよ、注文が嘘みたいになくなりましたよ。」
そりゃそうだ。飲食店にお客様が来なきゃ、業者への注文だってしない。
業者には申し訳ないが、仕入れは減らせば支払いも減る。
が、固定費と言われる家賃、人件費は、いくらヒマでも少なくならない。

政府が、「もうたんなる風邪だ。」と言っているにもかかわらず、マスコミはセンセーショナルを優先する。
殺人的な暑さにもかかわらずマスク姿は減らない。風通しの良い屋外でさえマスク、マスク、マスク。
日本人は清潔好きと言われているが、ここまでくると「潔癖症」という病気だ。
マスゴミの言うことに抗わなくなった日本人。
馬鹿になりかけていることに気がついているだろうか?

もうやばい、もうダメかも、と何度も何度も歯を食いしばってきたけど・・・。
いつまで頑張れるだろうか・・・・。
七月はノーゲストが二日だったが、1~2名という日を含めると、その合計は一週間になる。

チェスと将棋

若かりし頃、結婚して子供は何人作ろうかと考えた。
1人、3人、11人という数で作ろうかと考えた。
それは自分の(子供育てる)財力とか子供好きだとか、と言う理由ではなかった。
当時私が好きなものが三つあった。
将棋、麻雀、サッカーだった。
子供を一人作れば将棋が出来るだろう、三人作れば私を含めて4人で麻雀を、11人作ればサッカーチームが作れる、と単純に夢想していた。
「子育てがどんなにたいへんか」が実際に子供が出来ると、ようやく理解できた。かくして子供は三人で打ち止めとなった。

さて、子供が授かり、その子供が大きくなり、学校に上がる頃になったら早速将棋を教えた。
私の棋力はアマチュア初段というところ。
町中のちょいと「オレは将棋が指せる。」という方たちがだいたいの棋力がは4級といったところ。私はそれより少し強いかなくらい。私が将棋を覚える時には将棋の先生がついていた。プロの登竜門である奨励会出身の人だった。

その先生は厳しかった。「待った」はもちろんだが、敗戦の時は必ず盤面を前にして正座して「参りました。」と言わされた。
当時、”角””飛車””香車”の3枚落ちだった。そういうハンデを貰いながら、先生にはまず勝てなかった。当時の私の棋力が4級だった。
が、毎回「参りました。」を言うのが悔しくて悔しくて、様々な将棋教本を見ながら覚えていった。

そのやり方を子供たちに教えていった。
子供たちにあえて「参りました。」を言わさせた。
子供たちは面白くなかった。将棋を覚える以前に、私との実力差に将棋に対して嫌悪感を抱いたのだった。
私が大人げなかったのだ。

麻雀は「運」が作用する部分が大きく、将棋ほど実力の差は出ない。
麻雀は子供たちも好きに覚えていった。

ウクライナとロシアの戦争が長引いている。ロシアはミサイルを撃ちながらも、戦争を仕掛けてない、民間は標的にしてない、などの言っている。
戦争は悲惨だが、大陸系と日本人の戦争観は違うのでは、と思う。

日本の将棋は、取ったコマを使えるが、チェスは取るだけで終わる。
日本の古来の戦争は、勝利した相手の武将を我が陣営に組み入れる場合が多々あった。兵を指揮できる人材を惜しんだ故と、私は考えている。それが将棋のルールに根付いたのでは、と考える。

比して、中国将棋やチェスは取ったコマを再利用することはルール上にない。
徹底して抹殺する、中国や西洋の戦争をモチーフにすれば、取ったコマの再利用ルールは、なくて当たり前なのかと。

ロシア、ウクライナの戦争を見ていると、チェスの持っている背景がちょっと分かた気がした。

孫と嫁

5歳の男の子の孫と、その母親(嫁)との会話。

5歳は子供が母に向かって小理屈をこね出す頃でもある。
自己主張と、さりとて母親からの関心を勝ち取りたい甘えが同居しながらの、一種の反抗期を母親に見せてくる。
そんな一幕を嫁が披露してくれた。

いつもは子供の主張を余裕を持って受け流す母親なのだが、その日は違った。
賢しそうに言い張る息子の一方的な言葉に、カチンと来た母親が息子に向かってまくし立てたそうな。
その詳しい内容は不明だが、タジタジとなり、追い込まれた息子(孫)が母親にむかって放った言葉。
「言葉の数をたくさん知らない子供に対して、それはたくさんの言葉を知っている大人の対応ですか!」

この切り返し!

いつもと違う母親の強い言葉を浴びせられながら、母親を怒らせた反省をしつつ、劣勢にたたされている立場で、逆転させる言葉を懸命に探しだして放つ。
孫の口をとがらせた顔を思い浮かべながら、
(ああ、この子は賢い。そして相手を慮る方法を身につけてる。)

「ブレード」と呼ばれる流行のコマを、説明書を見ずに組み立てている孫。
この賢さは、きっと私に似たんだな!ふむふむ。