新興勢力

店舗備品の整理が始まった。
掃除を兼ねているのだが、まずはいろいろなところへ置いてある食器類グラス類調理用品他いろいろな備品を棚や引き出しの奥から取り出すことから始めた。

私は閉店にともなう業者への連絡や書類の整理を始める。始めるそばで客席のテーブルの上に、食器類がどんどん積み重なる。よくもまあこんなにも、とその多さに驚嘆する。
15時ほどになるとテーブルの上に並べられた什器備品の整理がままならぬようになってきている。整理をしている従業員からの、(どうにかしてよ。)という視線が私に集まるようになる。
言われるまでもなく、LINEで商店会の飲食店向けのインフォメーションを始めた。
◆◇◆◇◆◇◇◆◇◆◇◆
 飲食店関係者にお知らせ
歓ファンで使っていた、お皿、グラス、調理用品(バット、ボール他)など出てきています。
欲しい方がありましたら見に来てください。
他、フードプロセッサー、HI調理器、プリンター用紙、
早い者勝ちだよ。
 ◆◇◆◇◆◇◇◆◇◆◇
開店前の準備にかかっている時間なのに、商店会員の数名がすぐに集まってきた。
その中の一人、この界隈で数店舗を営んでいる一人が、
「これもください。あれもください。」
と、ショベルカーでかき集めるように運び出す。そのグループの各店の従業員を集めて持って行かせる。聞けば「倉庫」なる部屋を新宿二丁目に借りているそうだ。
私はと言えば、とっくに覚悟を決めていたのに、もう(閉店を延ばす、撤回するような)後戻りできないんだと、心臓が締め付けられる思いをあらためて噛みしめる。いっぽう什器備品をかき集めている40代半ばの若き社長には、漲る精力、精悍さが溢れている。
まだ4~5年は仕事はできる、続けられると思ってる私なのだが、この勢いはない。なくなった。これを痛感させられる。

閉店に伴う諸事が終われば、店舗規模を縮小しての再開はねらっているだが、この精力精悍さは少し分けて欲しいなあ・・・。











お別れ会

厳密な限定はしなかったが、4月1日は町会関係者で、2日は商店会関係者に集まって貰って「お別れ会」を開催した。
会費はほぼドリンク代(2,000円)だけをいただいて、食事は無料。
料理30種類は出しただろうか、残っていた食材をほぼ出し終えた。
棒棒鶏、
焼き豚、
くらげ、
アワビと肝ソース
蒸し鶏のリンゴ和え
青椒肉絲、
酢豚、
アワビの醤油煮
麻婆豆腐、
レバニラ炒め、
茄子と挽肉のミソ炒め、
春巻き、
唐揚げ、
チーズボール、
ソフトシェルクラブの金沙粉和え
焼きソバ、炒飯、
焼き餃子、
シューマイ、
小籠包他饅頭5種類くらい
他にも多々

両日とも座れきれないほどの盛況さになった。
自分で言うのもなんだが、こんなにもこのお店に親しんでいただいていたんだと万感の思いを抱く。
両日とも残っていただいたお客様と二次会まで流れ込む。
握手やハグを取り交わし、それぞれのカメラで写真をとりあった。
ただただありがたい。うれしい。
けど、ひとときを楽しみながら、心のどこかに寂しさも少しずつ感じ始めていた。
貰い泣きをしたことは何度もあるが、自分が悲しくて泣いたこと、最近では記憶にない・・・・・けど、今回は泣きそうだなぁ・・。
みんなと離れることで自分のエネルギーがどんどん少なくなってくる。
逆に、これまでみんなからたくさんのエネルギーを貰っていたんだなあとつくづく感じる。


ランチタイム

昨日で営業が終えた。感無量。
営業終了前の2週間ほどは連日満席状況が続いた。
ランチも連日混み合う。通常40名様を超えると、ランチに添えるスープが亡くなったり、ご飯の残量を気にする数量だ。
それが70名様を超えてきた。閉店だけのせいか?
厨房は、あれがなくなり、これがなくなりと、代用品の心配まですることになる数値なのだ。

それも終わった。
今日と明日は、近隣の方を招いて「歓のお別れ会」を催す。夕方6時より。
朝7時頃目が覚め、初めて二度寝をしてしまった。気がついたら10時を回る。
お店に行き、冷蔵庫冷凍庫の在庫を調べる。お別れ会に提供する食材の確認だ。

確認作業をしながら、時は12時を回る。
閉店を知らずにいたお客様が何度もドアを開ける。
「三月末をもって閉店いたしました。21年の長きにわたってのご愛顧、誠にありがとうございました。 歓店主」
の大きな張り紙をガラスドアに貼り付けてあるにもかかわらず。

「申し訳ありません。営業は終了しました。」
と張り紙を指さし謝る。
謝りながら目はうるうるしてくる。
数ヶ月前から決断し、この日のあるのを幾度も確認、覚悟してきたのにも関わらず。
時とともに、この寂寥感は募るのだろうか、薄まってくるのだろうか。








営業最終日

連日大盛況!
閉店(廃店?卒店?)が近くなってくると、毎日毎日がすごい!
昼も夜も予定以上のお客様で賑わう。

一昨日は年に数回の宴会をいただける九大声楽部OBの方たちが集まってくれた。
一列に並んだ、私、妻、ホール担当西井に送辞の唄を披露してくれた。
「童は見たり~♪」
いつも感動ものの声量が店中に響くのだが、それが私たちのお店への感謝となると、唄を送られた三人は涙が止まらない。

昨日は故郷鹿児島の同級生が16名集まってくれた。
来られなかった友からも大きな花やさつま揚げが届く。
(こんなにも集まってくれるの!)
これまた感激に浸る。

厨房まで来て、顔を見せて別れの挨拶をしてくれる方、
「新しいお店が決まったら教えてね。」
私もホール担当の西井も、あと数年は仕事をしたいと思い、こぢんまりとしたお店を探してはいるが、この72歳という年齢になると、契約まで至るかは確率は下がる。
それでもこの方たちの声に応えたいと、あらためて思う。

愛されるお店に、少しは答えてこられたのかな・・・・
ありがとうございます。

廃店の手続き、掃除や片付けが終わって、落ち着けるようになったら、これまでの顛末や出来事など、少し書き込んでいきます。




いつかは迎える終わりに1

まだナイショ。
この梅日記を見ている人はどのくらいいるのだろうか。
でもナイショで教えちゃおう。
3月末でお店は終わっちゃうよ。
・・・・
・・・・
いろいろと手を尽くしたつもり・・・
この数ヶ月・・・
でも、もう、思いつく手立ては、終わりかな・・・

詳細はもう少し待ってて・・

従業員には、いや、一緒に終わりを迎えてくれる仲間たちには今週の初めに伝えた。それでもお客様にはまだ言えない・・・。
この葛藤がけっこう辛い・・・

この梅日記で、知る人だけに伝えるよ。
でもまだナイショ。
もう少しだけナイショ。

三月末で歓は営業を終えます。
いつかは迎える終わりを、もう少しで迎えます。



銀座の恋の物語

2月15日日曜日。
お店は定休日だったが、一組22名の予約があったため予約のみの営業。
予約はお昼から。宴会を終え15時過ぎには掃除も終わった。
一組とはいえ朝9時頃から準備が始まった。夫婦とも少々疲れ気味。15時過ぎに家に帰り着き一寝入りする。
そろって目が覚めたのは18時ころ。お腹も減った。それで食事に行こうということに。

新宿三丁目に「ステーキあづま」という洋食屋があった。このお店が店じまいをしたのが夏頃だったと思う。前職の中華レストラン店長時代からオーナー家族と仲良くさせて貰っていた。お値段もお手頃。ボリュームもあり美味しかったお店だった。昔ながらの店構えと店内も落ち着いたたたずまい。夫婦でよく通ったお店でもあった。
オーナーには非常に懇意にして貰い、前職を辞めた当時はこのお店の店長にならないかとありがたい申し出を受けたころもあった。
そのお店が店じまいをして、夫婦で出かける先のリストが一つ減った。

この「ステーキあづま」には別店舗がある。銀座店だ。銀座六丁目。
こういう場所で営業しているのに、ほぼ家族で営んでいる。現在は娘さんが社長としてお店に立つ。

妻に「あずまに行こうか。」と誘う。
「えっ、銀座まで・・・」
少し考え込んだが、了承した。了承すると同時にちょっとおめかし風に服を選び始めた。
着替える前のカジュアルな姿を見ながら
「そのままでもかまわないけど・・・」
「だって銀座でしょう。」
「もう暗くなってきたし、新宿と違って誰かと会う可能性もほぼないし・・」
「ダメ!」

このあずまで歓のチマキを扱って貰ったこともあり、配達で何度も訪れたお店だ。丸ノ内線で銀座駅に着いた後もスタスタとお店に向かった歩いた。有楽町駅を背に、みゆき通りの一本向こう通り。
「場所、わかるの?」
慣れない銀座を歩きながら、そしてオシャレな町並みにキョロキョロしながら妻が尋ねる。いつの間にか私の袖を掴んでいる。
若干早足の私に、妻は一人になって迷子になるまいと、無意識に私の袖を掴んでいるようだ。
「銀座は任せとけ。」とまでは言えないが、地図上の位置は把握できてる。
妻に
「銀座が似合ってるじゃないか。」
と冗談交じりに声かける。明るいネオンの光に映る妻の顔ははしゃいでいる。

お店に着いた。
新宿店にいた、オーナーの弟さんが迎えてくれた。
見慣れた顔を見て妻も一安心したようで、私に続いてオーダーを
「私もハイボール!」
「お、銀座の女に見えるぞ。」
妻の、へへと笑った顔から一転「ゲップ!」
「おい、銀座の女もゲップするのか?」
そーっと周りを確かめながら
「誰も聞いてな~い。」

たまには場所を変えての食事も楽しいらしい。
電車で時間をかけただけの価値が妻にはあったようだ。


鳥せん

営業年数は40年ほどだと思う。
歓の隣の焼き鳥屋「鳥せん」の建物の解体が始まった。
私のお店が21年だから、そのずーっと前からのお店。
頑固な親父さんとその奥さんが店を守っていた。
腰を痛めて3年ほど前に引退、閉店。
屋号の「鳥せん」が「鳥けん」に変わっても、あの店のイメージは頑固な親父さんがついて回る。

どんなものでもいつかは終わりが来る。
そうわかっていても、
もしかして明日は看板でもある赤提灯の灯がともるのではないか・・・・
と、歓にかぶせながら、心のどこかで引きずっている。

歓がオープンした頃を思いおこすと、ずいぶんとたくさんのお店が静かにお店を閉じていった。
毎日黒塗りのハイヤーが数台止まっていた「加賀寿司」、
朝方まで営業していた「吉野寿司」、
吉永小百合が来ていたという「大国寿司」、
酒が進む、少し塩っぱめの小料理屋「秋田おばこ」
毎年大晦日にお世話になった日本蕎麦屋の「成田屋」
やさしい味付け、親娘でやってた弁当屋「心花」
東北なまりが聞こえる山形出身の天ぷら屋「天悦」
ピアノやドラムが置いてあり、生バンが楽しめる「ノアノア」
全部、歓がオープンする前にあった素敵なお店たち。
昭和が漂っていた。

気がつけば、巻き戻しのない、コツコツと時を刻む時計の音だけが、医大通りに響いている。



コロナ禍をふりかえる

 ふた月に一度ほど、都から派遣される中小企業診断士の元、無料の経営相談を受けている。
今日がその日だった。
参加者は、中小企業診断士、私、そして78歳になる女性社員の三人だ。
売上表を見ながら、三者思い思いのアイデアや努力目標をぶつけ合う。
今日の資料は昨年度1年分の売上表だったが、表の下部に過去20年分の売上が載っていた。あらためて見直してみた。

売上が極端に落ち込んでいたのがコロナ禍の2年ほど。それまでの年間売上は5000万円前後あった。
コロナ禍の2021年、2022年はなんと半分の2500万円ほど。
あらためてパンデミックの影響力を痛感する。
災禍が終わって、そしてその売上は多少復活するも、コロナ禍前にもどってない。
会社を挙げての宴会が減ったのだ。特に大人数の宴席は減った。
当たり前にあった宴会の必要性がなくなった。
そして世の中の変化に我がお店が対応し切れてない。
苦しんでいる原因がここにある。

職人を減らし、私自らが厨房に入る。
私がへたに調理が出来たために、結果的に安易な道を選んでしまった。
周り(先)が見えなくなっていたと同時に、厨房で仕事に追われていたために修正する力も失った。
豈図らんや。
今日の経営相談で、これから出来ることをみなで見つけようとした。
重い沈黙が広がる。

悩みは、解決策が自分の中で見つけきれないから悩む。こういう時は解決策を外に見つけに行けば良いのだ。つまり誰かに聞くのだ。誰かが解決策を知っている。一人で悩むのは止めろ。
と、他人の悩みにはそう教えていた。

自分にそういう問題がかかって来たときには・・・・・
偉そうなこと言っちゃダメだね。





新年好(シンニェンハオ)

あけましておめでとうございます。
大晦日からズボラ正月を迎えています。
昨年は6月に4歳下の弟が67歳で、8月にはその弟と同い年の従兄弟が、そして9月は妻の母が96歳の大往生。
例年、長男の家にて正月を迎えていたのですが、 喪に服する意味も兼ねて、ズボラ正月を決め込みました。
近所を見回りがてら散歩しましたが、お正月休みで閉店しているお店の多い中、右往左往する外人さんたちを多く目にするものの、青空が広がった新宿の街は概ね静かです。

息子たちや孫たちに会えない寂しさを感じながら、妻と二人で家とお店を行ったり来たり。
お節(オードブル)作成の余ったおかずをつまみながら、久々にまったりとした正月を過ごしました。

ほぼ調理人が私一人という忘年会シーズンを終え、さすがに身体がギシギシなり、体力の乏しさを実感しています。
いつまでやれるかな、いつまでやろうかな、という実感です。
ホールを預かる78歳の女性と72歳の私のどちらかが欠けてもこのお店は回りません。30坪は少々広すぎなのです。
いつかは迎える「終わり」、今年もその呪文と向かい合いながら、少しでも長く頑張っていこうかと心新たにしています。

正月5日が仕事始め。
年始参りのお客様を迎えるランチはきっと大混みすることでしょう。
4日の日曜日はお昼過ぎまでフロア掃除の業者が入ります。それが終える15時頃から月曜の仕込みが始まります。その仕込みを始める明日のために今日は、年末、冷凍庫に締まった食材を冷蔵庫に移しました。

さあ、徐々に頭を仕事モードに切り替えていきます。
今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。






少年老い易く学成り難し

以前にも書いたことがあったが、鹿児島にいた時分、有為舎(ゆいしゃ)でいろんな事を学んだ。薩摩藩特有の郷中教育のことだ。 小学生4年の頃から高校2年までの児童だけで組む教育システム。
様々な行事に参加しながら、柔剣道や詩吟などを教わった。
タイトルは、その教わった詩吟の一節だ。

少年老い易く学成り難し
一寸の光陰軽んずべからず
未だ覚めず池塘春草(ちとうしゅんそう)の夢
階前の梧葉(ごよう)已(すで)に秋声

蕩々と唱う詩は私は下手だった。
が、ほとんど漢詩で教わる文句は今でも唱えることができる。
前半の二行は字も間違えずに書けるが、後半の二行を、はて、どんな文字があったっけな、とあらためて見た。

このお店を出して早22年が経つ。
22年間営んできて、いっぱしの経営者を気取っているが、内実は厳しい。
コロナ禍をはさんで、自分を、自分の立ち位置を振り返る余裕がなくなってきているのではと猛省しつつ、上記の詩をあらためて問う。

まだやれる、まだ続けたい、という気持ちが自分を見失っているのではないかと見つめ直している。

昨日簡易バージョンのお節(オードブル)を作り終えて、今年一年の仕事納めになった。明けは5日から。今日から五日間ほどの時間が作れる。
この一年、あるいはここ数年の、厳しい状況、苦しい状況を、私の立ち位置を含めて、あらためて見直して見ようと思う。

詩にもどる。
72歳になった今も、私はまだ夢を持っている。
ただ、ここ数年、夢を支える身体と気力がついてきていない。
だから
「未だ覚めず池塘春草の夢、階前の梧葉已に秋声」
なのではないか。

自分に素直になれ、と自分に問う。
一年の終わりに、終わりの始まりを考えた。